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新潟地方裁判所 昭和39年(行ウ)3号 判決

原告 米山忠治

被告 国立新潟療養所長

訴訟代理人 藤堂裕 外八名

主文

被告が原告に対してなした昭和三四年一二月一六日付懲戒免職処分はこれを取消す。

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

(当事者双方の申立)

一、原告、主文と同趣旨の判決を求める。

二、被告、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求める。

(原告の請求原因)

第一、原告の地位および本件処分

原告は、昭和二三年四月三〇日国立新潟療養所(以下、療養所という。)炊夫として採用され、同療養所庶務課給食係に勤務し、同三一年八月一六日雇員(事務)に配置換されて、同係に勤務を命ぜられ、同三二年一二月一日厚生事務官に昇任した者であるが、同三四年一二月一六日被告から国家公務員法第八二条第一号および第二号により懲戒免職処分(以下、本件処分という。)を受けた。

その理由は、「被告が原告に対し、昭和三四年九月一九日庶務課給食係から同課医事係(算定)に配置換を命じたところ、原告はこれを拒否し、その後度々上司から右配置換に応ずるよう注意を受けたにもかかわらず、遂にこれに従わない等上司の職務上の命令に従わず職務上の義務に違反し、且つ職務を怠つた等のことがあつた。」というにある。

第二、本件処分の違法

しかしながら、本件処分は国家公務員法第九八条第三項に違反した不利益取扱であり、また処分権の濫用であるから、取消を免れない。

一、原告の組合歴および所属組合の組織

原告は、従来から全日本国立医療労働組合(以下、全医労という。)新潟支部の組合員として活動していたが、昭和三〇年八月から昭和三一年六月三〇日までおよび昭和三二年九月から昭和三四年六月三〇日まで全医労本部の中央執行委員(専従)の地位にあり、同年七月一日から全医労新潟支部(以下、新潟支部という。)長に就任し、本件処分当時もその地位にあつた。

全医労は、全国の国立病院、療養所の職員をもつて構成する組合であり、新潟支部はその下部組織であつて国立新潟療養所の職員をもつて構成している。なお、この他にも新潟県下の全医労の支部をもつて構成する全医労新潟地区協議会(以下、地区協という。)、および関東信越地区の各支部をもつて構成する全医労関東信越地方協議会(以下、関信地方協という。)があり、また新潟県下の国立、公立、民間各医療関係労組からなる新潟県医療労働組合協議会(以下、県医労協という。)がある。

二、本件処分に至る経緯

1、原告は前記のとおり昭和三四年六月三〇日全医労本部中央執行委員を辞し、同年七月一日から療養所庶務課給食係に復帰した。

2、同年七月一日、原告は高橋庶務課長から医事係算定への配置換の意向を打診されたが、組合との団交で話合う旨回答した。同月三日右団交が行なわれ、席上組合が右配置換は組合弾圧策であると抗議し、これに反対したところ、所側は撤回することを約した。そして、同月四日原告は高橋課長から「持田栄養士が本部に中央執行委員として出ているから、その補充の意味で給食の仕事をやつてほしい。」旨の申出を受けたので、前記配置換問題は一旦立消えになるかにみられた。

3、ところが、同月一七日副支部長石井みち子に対し転勤の勧誘が、療養所歯科医師奥沢秀雄(県医労協議長)に対し国立習志野病院へ転勤の内示が、八月一二日有明療養所事務官星山芳朗(地区協議長)に対し霞浦病院へ転勤の内示がそれぞれ所側からなされたが、右三名はいずれもこれを拒否した。

4、全医労は、右三名がいずれも新潟支部(星山については新潟地区協)における中心的活動家であることから、右の転勤の勧誘または内示は、新潟県の医療労働者の組合である新潟支部、有明支部、県医労協、地区協の弱体化を企図するものであると判断し、八月二五日厚生省関東信越医務出張所長(同出張所は療養所の上部機関である。)坂元正徳と右配置換について団交を行なつたところ、坂元出張所長は「配置換は本人の意向をたしかめた上で行なうものであり、この問題についても再検討したい。」と答弁した。そして星山、石井の配置換についてはそのまま立消えとなつた。

5、しかし、八月三一日に至ると、再び原告は医事係への配置換の内示を受け、これを拒否したにもかかわらず、九月一日配置換が発令された。

6、そこで、新潟支部は、同月四日および九日所側と右配置換に関し団交を行なつた結果、所側は九日つぎのような事項を「確認書」として書面化した。

「一、組合の申入を了承します。九月一日の辞令は白紙に返します。

一、事後改めて米山忠治氏と話合い、また組合から話合いの申出があつた場合は、それに応じます。

一、今後の問題として人事異動に関しては両者誠意をもつて協議の上決定します。」

7、しかるに、翌九月一〇日原告は再び医事係への配置換の申出を受けたので、これを拒否した。所側は同月一七日前記確認書につき第一項を除く他の部分の撤回を通告し、同月一九日原告に対し人事異動通告書を発して配置換を命じた(以下、本件配置換命令という。)。

8、その後、右問題について度々団交が行なわ(もつとも、この間九月一八日および二三日の両日所側が団交を拒否した。)またこれとともに坂元出張所長(一〇月一五日付で今井療養所長が退職したため、坂元が療養所長事務取扱となる。)と全医労本部、関信地方協との間で話合いも行なわれ、その結果事態が解決の方向に向いはじめたので、一一月三〇日全医労本部は原告と話合い、配置換に応ずる態度を決めた。

9、そこで、一二月七日全医労は、坂元出張所長に対し配置換に応ずる態度を表明すると共に、処分をしないよう要請した。これに対し、坂元は「配置換に応ずるならば懲戒免職処分をするつもりはないが、他の処分をしないとの保障はできない。」旨答えたが、組合側の追及の結果、処分問題について再考を約した。

ところが、坂元は同月一〇日組合側に対し、「本件に関しては自分の手を離れた。」と連絡してきた。

10、全医労は一二月一四日当局側の態度いかんにかかわらず無条件で配置換に応ずることとしてこの旨を厚生省北川管理課長に通告した。これに対し、翌一五日厚生省黒木医務局次長は、「全医労の従来の活動方針を反省し、今後当局に迷惑をかけない。」との趣旨の詑状を書けば、原告を免職処分にしないと申出た。しかし、全医労は既に配置換に応ずる旨の誠意ある態度を示しており、また坂元出張所長との間で話合いが進展していたにもかかわらず、当局側の申出は全くこれを無視したものであつたため、翌一六日やむなくこれを拒否したところ、同日本件処分が発令された。

三、本件処分は不利益取扱である。

1、本件処分までの新潟支部の組合活動と被告の態度

(一) 昭和三三年六月ころ、療養所内に発生した盗難の嫌疑が療養所勤務の山田マサ准看護婦にかかり、同人は警察の取調を受けたことを苦にして自殺を図つた。同年一一月県医師協は、取調の方法に人権蹂躪があつたとして警察の責任を追及すると共に、新潟支部は一般組合員の強い要求に押されて所側に対しても、警察に山田を引渡したのは管理者側であるとして、その責任追及に乗出した。さらに、これを契機に組合員の要求により同支部は、職場における組合員の権利を確立し、再びこのような人権問題がおこらない様職場闘争の方針を決定した。この方針は、一般組合員の支持を得て、生理休暇を要求する闘争、本来の業務でない仕事を拒否する闘争などの権利闘争として、また学習サークル(雑草グループと呼ばれた。)の結成として発展していつた。

(二) このような一般組合員の動きに対し、当時の執行部は動揺し、同年一二月末には新執行部(現新潟支部の中心メンバーが含まれている。)に交代した。ところが、このような情勢に対し昭和三四年一月一九日から約二〇日間、厚生省関東信越医務出張所の太田次長が、療養所に来所して、執行委員一人一人に対し闘争の中止を命じ、さらに職制を中心とする反対勢力を動かして一月二一日「医療を守る会」を結成させ、支部組合員に加入を勧誘した。そのうえ、支部書記長渡辺三郎丸が、組合用務のためやむなく職場を離れたことをとらえ、職場離脱を理由に一月二四日一ケ月の懲戒停職の処分にした。このような反組合的な当局側の意を体した反対勢力は、医局を中心に「看護婦が生理休暇をとるため、人員不足となり手術もできないから、第七病棟を閉鎖する。」などと患者を煽動した。そして、二月初めには支部執行部も「医療を守る会」の幹部によつて占められるに至り、六月三〇日「医療を守る会」が改組されて第二組合である国立新潟療養所職員組合(以下、新職労という。)が結成され、原告の復帰当時同組合(組合員一七〇名以上)から支部組合(組合員七〇名弱)に対するはげしい切崩しが行なわれていた。

2、配置換の意図

原告に対する配置換問題は、このような状況下においておこつたもので、原告が全医労本部から帰任した翌日である昭和三四年七月一日からはじまつた。しかして、原告の復帰する給食係は、係長を除き全員(一九名)が支部組合員であり、量質ともに支部組合の活動の中心であつたのに対し、原告の配置換先である医事係は係員九名中七名が新職労組員であつた。したがつて、原告が給食係にとどまれば、その指導力によつて給食係の支部組合組織が切崩されずにすむ反面、原告が医事係に移れば、不慣れな仕事と新職労組員に囲まれた環境の下では組合活動が十分行なえないことが当然予測された。このような事情に、前記のような活動家である石井、奥沢、星山に対する転勤問題を考え合わせると、原告に対する配置換は新潟支部の組織弱体化を企図したものであることは明らかである。

3、配置換の必要性

(一) 療養所において、給食係は常時人手不足で昭和三三年一一月ころ当時の舟木庶務課長は原告を給食係に復帰させて増員すると確約していた。殊に、原告復帰当時持田栄養士が本部中央執行委員として選出されており、また春日栄養士も妊娠悪阻で休み勝ちであつた。したがつて、原告が復帰しても人手不足は完全に解消したとはいえない実情であつた。しかるに、昭和三四年九月に行なわれた配置換人事では、原告のほかに給食係の品田(支部組合員)を全員新職労組員である用度係に移し、一方全く給食事務に未経験の用度係、医事係の職員各一名(いずれも新職労組員)を給食係に配置換した。このような事態では給食係の正常な運営が期待されないことは明らかであつた。

(二) 所側は、原告が事務に熟達しており医事係を強化する必要があつたことを配置換の理由とする。しかし、原告が事務職員であつた期間は短かかつたから(昭和二九年二月から給食事務担当。但し、昭和三〇年八月から昭和三一年六月まで、昭和三二年九月から昭和三四年六月までいずれも本部中央執行委員在任)、所側の主張は理由がない。仮に、所側の主張どおりとするも、給食事務の甚だしい手不足の実情に照らせば、原告を医事係に配置換させる必要性はそれ程大きいものとは認められない。

(三) のみならず、前記奥沢医師(同人は一〇月四日転勤に応じた。)の転勤についてみても、同人の転勤の理由は勤務期間が長いということにあつたが、療養所では歯科医の定員は一名で、同人を転勤させれば、他から補充が必要となり、また転出先の習志野病院には欠員がなかつたから、同院からも転出者を出すことになる。加えて療養所では、医師の転出入の事例がなく、奥沢本人も転出を強く望まなかつたことなどを考えると、奥沢の転勤には十分な理由が認められない。このように、療養所の行なう転勤および配置換には合理性が見出せないのである。

4、配置換の慣行

従来、療養所では予め所側が組合の了解を求め、さらに本人の内諾を得てから配置換を発令するのが慣行であつたし、本部中央執行委員が現場に戻る場合は原職場に復帰させるのが一般の例であつた。しかしながら、前記奥沢や原告に対する配置換は全く一方的に発令され、この慣行が無視されていた。

5、確認書の撤回

前記のとおり、所側は一旦取りかわした確認書による合意を一方的に撤回した。右撤回は明らかな組合軽視であり、しかもそれは上級庁の指示によるものであつて、このことは配置換の意図が単に業務上の必要のみから出たものでないことを示すものである。

6、さらに、前記二にのべたとおり、本件配置換につき最終段階においては被告との間で話合いがまとまりかけており、本件処分直前には、原告は二度にわたつて本件配置換に応ずる意向を示していたにもかかわらず、被告があえて本件処分を行なつたことは、単に口実を原告の本件配置換命令拒否に求めて、他の目的を達しようとしたことを示すものである。

7、これら一連の事実によれば、被告は日頃から前記一のような組合役職にあつて活溌に組合活動を行なつていた原告および原告が所属しその指導下にある新潟支部を嫌い、種々な形で組織破壊等の弾圧を企ててきたが、本件配置換命令によりなんら業務上の必要がないのに、ことさら原告を前記のような不慣れな職場に移すことによつて、その活動を封じ、あわせて新潟支部の弱体化を図つたものであるということができるから、原告に対する本件配置換命令は国家公務員法第九八条第三項の趣旨に反する不利益取扱であり、本件処分は原告が本件配置換命令を拒否したことを口実として、前記のような反組合的意図を実現せんがためになされたものであるということができるから、同条に反する不利益取扱であるということができる。

四、本件処分は処分権の濫用である。

1、原告に対する本件配置換命令が不利益取扱でないとしても、前記二および三に述べた事情の下では、原告および新潟支部がそう考えるのに無理からぬものがあつた。したがつて、原告および同支部が従来の慣行を無視した右配置換に対する疑惑を晴らすため所側と交渉を行ない、結論が出るまで右配置換命令に従わなかつたのは当然である。この交渉の中で前記確認書が作成され、また交渉内容も進展を見せ、さらに原告は二回にわたつて配置換に応ずる態度を表明してきた。すると、被告は前記二の10のように原告および全医労として応ずることができないことが明らかな詑状の提出を求めてきた。このことは被告が、原告が配置換に応ずる態度を示してきたので懲戒免職をすることができなくなつたため、その条件を作り出すために難題を持ちかけたことを意味するものである。

2、国家公務員の職員団体も、地方公務員のそれと同様に、当局が処分し得る問題について書面による協定を請求する権利があると解すべきところ、右確認書による合意は当事者を拘束するものというべきである。仮にそれが道義的な拘束力しかないとしても、前記のとおり一旦確認書を取り交わした被告が、その確認書の趣旨に反して処分をなすことは到底許されない。

3、また福島療養所においては、転勤を拒否し、一ケ月半もこれに応ぜず、そのため懲戒免職の禀議書を出された者が、なんらの処分を受けることなくして解決された例があり、新潟支部の書記長渡辺も二ケ月間の完全職場離脱があつたにもかかわらず一ケ月の停職処分で済んでいる。これらと比較した場合には、本件がそれ以上に、著しく重い懲戒免職をもつて臨まなければならない理由はない。

4、以上の事実に照らせば、本件処分が懲戒権の著しい濫用であることは明白である。

第三、原告は昭和三五年一月一二日人事院に対し、本件処分の取消を求めて審査請求をしたところ、昭和三九年五月一日本件処分を承認する旨の判定が下されたので、本訴におよんだ。

(被告の答弁)

第一、請求原因第一の事実は認める。

第二、同第二の冒頭の事実は否認する。

一、同第二の一の事実は認める。ただし、全国国立病院、国立療養所の職員の全部が、全医労の組合員であるわけでなく、また、国立新潟療養所の職員全部が新潟支部の構成員であるわけでない。

二1、同第二の二の1の事実は認める。

2、同第二の二の2の事実のうち、原告が団交で話合う旨回答したこと、所側が配置換の撤回を約したこと、高橋課長が原告に対し「持田栄養士が本部中央執行委員として出ている。」と話したことは否認し、その余は認める。但し、高橋課長が原告に引続き給食係に従事するよう伝えたのは七月四日である。

3、同3の事実のうち石井に転勤を勧誘したことは否認し、その余は認める。石井については、身上調書に東京転勤の希望が記載されていたので、高橋課長がその真意を確めたに過ぎない。

4、同4の事実のうち、全医労が原告主張のような判断をしたことは不知。八月二五日坂元出張所長が全医労と面会したことは認めるが、その余は否認する。八月二五日の面会は集団陳情であつて、団体交渉という性質のものでなく、またその席上坂元出張所長は「原則として本人が納得する人事をやりたいが、本人が納得しなければ人事はやれないものではない。」と一般的抽象的な発言をしたに過ぎない。星山の転勤が立消えになつたのは受入先で年令経験等の点から、同人に難色を示したからであつて、団体交渉の結果ではない。

5、同5の事実は認める。なお辞令は九月三日に交付された。

6、同6の事実のうち、九月四日および九日所側が支部三役らと面会し、九日その主張のような確認書を作成したことは認めるが、その余の事実は否認する。後記のとおり、右両日の交渉は団交というべき性質のものではなく、とくに九日は全医労組合および支援労組員ら約八〇名の集団的抗議であり、中には土足のまま上りこんだ者、飲酒していた者などがあつて、組合側は午後四時三〇分から一二時過ぎまで多数の威力を示して所側を取囲み、罵詈雑言を浴びせ、「押印しなければ外に出さない。」と脅迫して、所側に確認書に署名押印させたのである。

7、同7の事実は認める。

8、同8の事実のうち、坂元出張所長と全医労本部等との話し合いの結果事態が解決に向いはじめたことは否認し、全医労本部が本件配置換に応ずる態度を決めたことは不知、その余の事実は認める。

9、同9の事実のうち、一二月七日坂元出張所長が処分しないよう要請を受け、その主張のような回答をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。坂元出張所長は同月一〇日「この状態では話合いを打切るほかはない。」と通告したのである。

10、同10の事実は否認する。全医労は一二月一四日北川課長に対し、本件配置換に応ずる用意があるという趣旨の通告をしたに過ぎず、当局側は翌一五日処分が行なわれなければ右配置換に応ずるというのがその意向であることを知つたのである。また、当局が原告に対し詑状を要求したことはあつたが、その内容は「原告は従来の態度を陳謝し、今後かかる行動をとらない。」という趣旨のものであつた。

三1、同第二の三の1の(一)の事実のうち、療養所内で盗難事件が発生し、山田に嫌疑がかかり、警察の取調を受けたことは認めるが、所側が同人を警察へ引渡したこと、所内における従業員の諸権利が無視されていたことは否認し、その余は不知。同(二)の事実のうち、その主張の期間太田次長が来所したこと、渡辺をその主張のような懲戒停職処分にしたことは認め、太田次長が原告主張のように組合の分裂と弾圧を策したことは否認し、その余は不知。

2、同2の事実のうち、原告に対する配置換問題が原告が全医労本部から復帰した翌日からおこつていること、給食係の人数が原告主張のとおりであることは認めるが、原告に対する配置換命令が支部組織の弱体化を企図したものであることは否認し、その余の事実は不知。

3、同3の事実のうち、持田栄養士が中央執行委員として全医労本部に駐在するため、また春日栄養士が妊娠悪阻のため長期休暇をとつたこと、原告に対する配置換の理由が、原告が事務に熟達しており、医事係を強化する必要があつたこと、原告の給食事務担当期間、中央執行委員在任期間が原告主張のとおりであること、奥沢医師が転勤に応じたことはいずれも認めるが、その余は否認する。但し、被告は持田栄養士が被告に無許可で全医労本部に赴いていたので、間もなく帰任するものと予測していた。

4、同4の事実にうち、本部中央執行委員が現場に戻る場合は、原職に復帰するのが一般の事例であつたことは認めるが、その余は否認する。原告に対する九月一日付配置換命令については、同日から同月三日まで命令に応ずるよう説得したうえ、同月三日に辞令を交付したものであつて、話合いをすることなく、一方的に発令したものではない。

5、同5の事実のうち、所側が確認書の内容を一部撤回したことは認めるが、その余は争う。

6、同6および7の主張は、全部争う。

四、同四の3の事実のうち、渡辺が懲戒停職処分を受けたことは認めるが、その余は否認。同四のその余の主張はすべて争う。

第三、請求原因第三の事実は認める。

(被告の主張)

第一、本件処分の適法性

一、原告に対する本件配置換の必要性および合理性

1、原告に対する本件配置換は、昭和三四年度における厚生省全体の事務合理化ないし強化のための具体的施策としてなされたものである。右の事務合理化ないし強化の内容は、診療報酬の請求を中心とする医事業務の確立と適正な事務処理にあり、被告は厚生省から右施策の指示を受けて、これを実施すべき立場にあつたのである。

2、被告は、厚生省からの右指示に基づいて療養所内における医事係算定の業務の強化をはかるため、昭和三四年六月当時、医事係算定に配置されていた職員のうち、疾病あるいは年令その他事務能力において十分なものを備えていないと思われる者を同係から転出せしめ、その代替要員として、比較的事務能力に富んだ者を医事係算定に配置することとし、その一員として原告が選ばれたのである。原告が右配置についての適性が認められた理由はつぎのとおりである。

(イ) 原告が全医労の専従者の身分を解かれて療養所に復帰した当時、原告が従来所属していた給食係には欠員がなく、現在員数をもつて十分業務を遂行しうる状態であつたこと、

(ロ) 原告は事務経験において、比較的長く、いわゆる中堅事務職員として相当の能力を有していたこと、

(ハ) 原告は、給食係員として勤務してすでに一一年の長期におよんでおり、これを機会に他係の業務を経験させることが本人のためにもなり、また人事管理上も望ましいこと、

(ニ) 原告は、すでに二期にわたつて全医労の専従者として勤務場所を離れていたものであるが、第二期目に右専従者として転出する際、「復帰後はいかなる配置に就かされても異存がない。」旨の意思を表明していたこと、

3、右の配置換の必要性について、原告は給食係が当時人手不足であつた旨主張し、その理由として持田栄養士が中央執行委員として選出されていること、春日栄養士の悪阻状態をあげているが、この主張は失当である。けだし、持田栄養士が中央執行委員として療養所を欠務するためには被告より専従休暇の承認を得る必要があるが、専従休暇の承認は、法的には被告の恩恵措置と解さるべきもので、現に被告はこの承認を与えない方針であつたし、また、春日の休暇はその性質上一時的なものであつて、いずれも欠員の類に入れられるべき筋合いのものではない。

二、原告に対する本件配置換命令に至るまでの経緯

1、前記のような理由によつて、被告は原告に対して、昭和三四年七月一日前記配置換の内示をしたのであるが、原告はその諾否を留保し、加えて自己が支部長を務める新潟支部と団交すべき旨を申し入れてきた。しかして、右団交の際、原告および組合は、「専従から復帰してすぐ配置換することは組合弾圧である。二ケ月くらい経つてから配置換されるのであれば異議はない。したがつて、今回の発令は見合わせて貰いたい。」との理由で、右配置換にただちに応ずることを拒否した。

もつとも、被告は原告の意向を考慮に入れながらも、前記のとおり、当時給食係に所属していた持田栄養士が同年七月二日から被告の承認をえずに無断で全医労の専従者として上京し、また春日栄養士が妊娠悪阻のため突然に病気欠勤したため、給食係に前記内示の当時知りえなかつた二名の欠員を生じたことが主たる理由となつて、右内示どおりの発令をすることが困難となり、右発令を留保し暫時原告を給食係に配置せざるをえなかつたのである。

2、その後二ケ月を経て、被告は係長クラスの職員二名の所外転出とこの補充人員としての二名の転入の人事異動が行なわれるに当つて、療養所内の配置に若干の異動が必要となり、この一環として、従前の構想によつて懸案の医事係業務の整備をはかるため、かねて留保していた原告の医事係算定への配置換を行なうべく、同年八月三一日原告に対してその旨内示した。ところが、原告は右内示に対しても、話しが急であること、気が進まないことなどを口実に言を左右にして応じようとしなかつた。そこで、被告は、原告を納得させたうえで発令しようと企図し、他の九月一日付配置換予定者五名とともに発令を一時留保し、同月三日まで庶務課長が原告の説得に当つたが効を奏さなかつた。そこで、被告は原告の右配置換が療養所内外の一連の人事異動に関連するため、同年九月三日一連の異動とともに原告に対する右配置換の発令を行なつたが、原告はこれに対しても、人事異動通知書を郵便にて返送するなどの対抗手段を用いて拒否の態度を表明した。

3、しかして、同年九月三日付の右配置換命令をめぐつて、被告は同月九日原告をはじめとする全医労組員に外部の支援労組員と称する者を加えた数十名からなる集団交渉を受けた。すなわち、同日午後四時三〇分ころ、原告をはじめ新潟支部書記長渡辺三郎丸ら支部組合員、地区協書記長対山隆二その他全医労本部役員、部外柏崎地区労などの支援労組員約八〇名が被告をはじめとする管理者が用談していた所長室にちん入し、退去要求に応ぜず多数で管理者をとり囲み、原告の配置換命令の撤回を迫つた。

右集団交渉は、深夜一二時過ぎにおよび、患者から療養所管理者に対して事態を早急に収拾すべしとの抗議がなされるに至り、被告は事態の重大性を憂慮し、交渉を打ち切ることによつて、療養中の患者の安静を保ち、これに対する悪影響を防ぐため、所内の平穏を回復しようと試みた。しかし、原告らは全く右事態に配慮を及ぼさず、徒らに強談を続行したため、被告ら管理者側は疲労の余り原告らの不当な集団的威圧に耐えかねない状態となつた。このとき原告らから提出された押印を迫まられたのが原告の主張する確認書である。被告は、原告から当初示された確認書の草案があまりに不当であつたため、前記のような情勢にありながらもなお右押印を拒否し続けたが、原告らが、右文案を一部訂正したうえ、事態収拾のため押印すべきことを迫つた上、「翌日改めて発令すればこれに応ずる。」旨の発言をしたので、不本意ながら、事態収拾のため、やむなく右押印の要求に応ずることとした。もつとも、右の「配置換に応ずる。」旨の発言については、被告はその意図するところに疑問がないわけではなかつたが、原告らが当時多数の外部者を支援者として招致していたこともあつて、これらの者に対する面目を保つため前記のような配置換命令の撤回等を内容とする確認書に押印を求めたものと推察し、右意図をあえて詮索することなく、右発言を原告の真意として理解することとし、原告らに対し右発言内容を再確認したうえで押印したのである。

4、被告は、翌同月一〇日前記の「明日改めて発令するならば応ずる。」旨の原告の口約を信じ、かつ医事係算定の業務の強化を急ぐ必要があつたので、再び原告に対し配置換を内示した。しかし、原告は右内示に応じようとせず、これに対して当初は依然として組合弾圧であることなど従前どおりの主張のみを繰り返えすだけであつた。

被告が敢えて本件確認書の内容を撤回、破棄等をなさずに、右の発令した理由は、原告らから予め配置換の応諾の確約をえているため、確認書は実質的に反故同然であると理解したためであつた。しかし、被告は改めて原告の右態度を知り、協議のうえ正式の発令をするためには確認書の内容を撤回しておくべきであるとの結論に達し、本件配置換の発令を前に、同月一七日に撤回したものである。

三、本件配置換命令に対する原告の拒否の態度および本件処分発令の経緯

1、原告は、同月一九日本件配置換の発令を受けたがこれを拒否し、部内および部外の労組員等多数とともに、団体交渉と称して、療養所内にちん入して所内を横行し、無断集会を開き、さらに管理者に面会を強要し療養所構内に無断で多数のビラを配付し、あるいは管理者の宿舎に押しかけて集団示威を行ない、管理者の自宅に数度に亘り深夜電報を打つなどの威迫的行為に出て療養所内の秩序を乱し、不穏な事態を醸成するに至つた。ことに、同月二五日厚生省、関東信越医務出張所の係官が来所した際には、午後二時から翌二六日午前六時三〇分に至る間、原告は全医労組合および部外労組員ら百数十名とともに、前記係官および療養所管理者をとり囲み、多数の威力を示し、罵詈雑言を浴びせて、原告の本件配置換の発令の取消を強要し、かかる長時間の強談と威迫により、厚生省係官大塚弘は血圧昂進のため医師の診断をうけ、高橋庶務課長は嘔吐するに至り、また被告らが原告らの包囲を脱出しようと試みるや、スクラムを組んで妨害し、もみ合うなどの暴行を加えるに至つた。そのほか、原告は後記怠業行為を煽動し、これを自己の要求を遂げるために利用するなど、あらゆる手段を弄して、管理者に対する嫌がらせと威迫を行なつた。

2、このような事態が継続したため、被告は原告を懲戒免職にすることもやむなしと考え同年一〇月一四日付で厚生省官房人事課長宛の原告の懲戒免職協議書を関東信越医務出張所に提出したうえ、処分発令までに若干の日時があるので、その間に原告の飜意を期待して新配置に就くべきことを勧告した。

なお、当時被告の職にあつた今井二雄は同月一五日付で退職したが、後任の坂元正徳も病気で入院中にもかかわらず、一ケ月半余にわたつて同様勧告したが実らなかつた。そこで、被告は話合い打切りを全医労に通告し、原告の懲戒免職協議書を厚生省に進達したが、その後同年一二月一四日に、原告は全医労横田書記長らとともに、厚生省医務局管理課長北川力夫に対し、何等の処分がないならば配置に就く用意がある旨申し入れ、若干その態度を緩和して来たので、同課長、同局次長黒木利克から懲戒免職処分を再検討する資料として、原告の誠意ある反省を表明する書面の提出を求めたところ、原告はこれを拒否し、命令違反行為に対する反省悔悟の情を示さなかつた。かくて、被告は同年一二月一六日厚生省官房人事課長から懲戒免職を承認する旨通知を受けたので、同日付で原告を懲戒免職処分に対し、翌一七日原告にその旨の人事異動通知書を交付したものである。

四、食餌運搬拒否について

1、療養所においては、昭和三一年給食委員会の答申に基づき一二療棟のうち六療棟の食餌運搬は、朝食を除いて専ら給食係の炊夫の業務と決定され、爾来給食係炊夫において行なわれていたのである。

当時療養所には一四名の炊夫がいて、うち一〇名が調理師の資格を有していたが、地区協の専門部会である新潟県下調理師連絡協議会においては、かねてから療棟に対する食餌運搬は本来調理師の業務でないとの見解にもとづき、新潟県下全医労各支部において食餌運搬を拒否する闘争を指導しており、療養所においても昭和三四年八月二一日ころ炊夫からこの趣旨の意見が表示されていた。これに対し所側は炊夫らの主張の理由なきことを説示し、無暴の挙に出ないよう注意警告していたのであるが、同年九月二五日に至り、炊夫は調理師一同の名をもつて「一〇月一日から病棟進出を拒否する。」旨の文書による通告を行ない、同日昼食から食餌運搬を中止するに至つた。右通告を受けた所側においては、直ちに庶務課長補佐をして右行為が怠業行為に該当し、国家公務員として許されないものであることを告げしめ、さらに一〇月一日、二日、一二日、三〇日と数回に亘り運搬作業放棄を即時中止して、平常な業務に服するよう命じたが炊夫らは右命令に従わず、昭和三五年一月二一日新潟支部の指令によつてこれを中止するまで一一二日間に亘り怠業行為を継続した。

2、しかして、右怠業行為が新潟支部長としての原告によつてあおり、そそのかされたものであること、また原告は右怠業行為を実施せしめ、これを利用することによつて、本件配置換に関する自己の主張を遂げようとしていたものである。このことはつぎの事実によつて十分推認しうるところである。

(イ) まず、前記調理師連絡協議会は、地区協の一部門であり、右連絡協議会が食餌運搬拒否の態度を決定し、新潟支部において食餌運搬を拒否する闘争を指導していたが、療養所で炊夫からこの趣旨の意見が表明されたのは、原告が療養所に復帰して間もなくのことである。

(ロ) 療養所において、具体的な怠業行為が企図され実施されたのは、原告が本件配置換の発令を受けた直後である。

(ハ) 新潟支部は、数次にわたり右怠業行為が正当なものであることを宣伝し、右行為を支援する態度を示している。

(ニ) 右怠業行為開始前および後に管理者がその中止を命じた際、これに中心となつて反抗したのは、当該調理師ではなく、調理師以外の給食係職員で新潟支部の組合員であり、その先頭にたつていたのは原告である。

(ホ) 右怠業行為は、新潟支部の指令によつて中止されている。

3、右怠業行為は、結核患者の病気回復のための必須の要素である栄養源としての食事を遮断する結果ともなりかねない重大行為であり、その目的の当否は別としても、全く違法な闘争手段である怠業行為およびそれを支援する行為であつて、これは公務員として絶対に許すことができないものである。なお、療養所は事態を重視し、急拠人夫を雇つて不測の結果を防止しえたが、この結果、金二三万五、二八二円の損害を生じ、右応急の措置を含めて、右怠業行為によつてその業務の正常な運営を阻害されたのである。

4、本件処分についての人事院審理では、右事実を審理の対象から除外されたが、右事実は本件処分説明書の記載中「…………等。」の中に含まれていると解すべきであり、仮りに然らずとするも処分に対する取消訴訟においては、当該処分の説明書に記載された事由以外の処分事由を主張することを妨げないというべきである。

五、以上のとおり、原告が国家公務員として上司の職務上の命令に従わず、職務上の義務に違反し、且つ職務を怠つた等のことがあつたことは明らかであり、かつその情状酌量すべき余地は全くないものであるから、被告の本件処分は当然の措置である。

第二、原告の不利益取扱および処分権の濫用の主張について

一、原告は、本件配置換命令をもつて、本人の内諾を得てから発令すること、および本部専従者が現場に復帰した場合は原職に就かせるという慣行に反する旨主張するが、かような慣行はない。ことに、本件のような同一勤務場所における職種に変更のない配置換命令は単なる事実行為で、本来本人の承諾を要しないものであるばかりでなく、かかる配置換は拒否されないのが通例であるから、その意味での承諾があつて配置換された事例をいくら積み重ねても法的に意味のある慣行の成立を認めることはできない。

二、原告は、全医労の組合員である山田マサの窃盗被疑事件の捜査に対する被告の態度から被告の反組合性を主張しているが、山田准看護婦が警察に出頭することについては、本人が承知のうえでのことであつたから、所側が引渡したとか、強くうながしたという事実はまつたくない。

三、原告は、全医労新潟支部の生理休暇闘争に対する療養所およびその上級官庁である関東信越医務出張所次長太田鼎三の行為をもつて生休闘争に対する弾圧であるとし、昭和三四年初頭に組織された「医療を守る会」の誕生を目して、被告の分裂工作によるものである旨主張する。しかし、

1、右生理休暇闘争の実態は、従来は生理日の就業が著しく困難な者一、二名が生理休暇をとつていたにすぎなかつたのに、昭和三三年一二月には延人員六一名、翌年一月には同一〇四名に達する者が、組合の指導に基づいて、全く予告せず、互いに生理休暇者の業務をカバーすることなく、生理休暇と称して欠務し、特に、看護婦の夜勤者が真夜中勤務交代直前に電話による休暇届出をし勤務しない等の状態であり、勤務割の組替に困難を生じ、業務の正常な運営に支障を生ずるに至るほどのものであつた。

これに加えて、新潟支部は同年一二月二八日を期して看護婦の食器洗いを本来の業務でないとしてこれを拒否し、また補助者(看護助手)等が超勤を拒否し、さらに、年末、年始の特別休暇等による欠務者も出たため、療養所の看護力は著しく低下した。このため、一般療棟患者の看護のため手術病棟からもしばしば応急人員を差向けざるをえない状況にあつた。

そこで療養所もその対策として手術件数を削減し、昭和三四年一月一七日には手術後の観察病棟である第七療棟を閉鎖し、同療棟収容の患者三五名をそれぞれ一般病棟に分散収容させ、同療棟の看護婦八名、看護助手三名を生理休暇者の予備人員にあてたが、この方法によつても、その実施件数は従前の半数以下に減少するに至つた。一方、患者の不安動揺も甚だしく、闘争期間中安眠できないとの理由で睡眠薬を求める者が非常に多かつた。

また、右闘争が始つてから新潟支部を支援する部外の者が常に所内に出入し、迎賓館等も占拠されるという状態となり、廊下などにも勝手にビラ貼りをするなど所内秩序の乱れを放置できない状態となつたので、その規制のため、被告は組合事務室を除く所内での集会を禁止し、この旨を公示した。

このような事態に対処するため、厚生省関東信越医務出張所では、事態の調査と療養所の正常な運営を図るため、同所太田次長を昭和三四年一月一九日から同年二月七日まで新潟療養所に派遣し、同次長は同所管理者とともに、職員に対し生理休暇闘争の非なることを説得し、また、同年一月二三日原告を含む新潟支部幹部に対しても(当時組合は所側の申入にもかかわらず話合いを拒否していた)組合としても闘争を中止するよう要望して、業務の正常な運営を回復することを図つた。このように太田次長および被告ら管理者側は前記のように混乱した療養所の看護業務を正常な状態に戻し、患者の療養におよぼす悪影響を防ぐ意図で右のような説得行為をしたもので、組合弾圧の意図を有するものではなかつた。

2、この生理休暇闘争は、昭和三三年一二月二六日における新潟支部臨時大会において支部闘争執行委員の交代とともに、さらに激化するに至つた。しかもその後、右闘争による看護業務の支障は入所患者に不安を与え、看護婦と患者にトラブルを生じたので、昭和三四年一月一一日患者は、患者の療養生活を守り、その妨げとなる障害を排除することを目的として特別対策委員会を患者自治会である「新療会」の専門部会として設け、療養所および組合の双方に対し、闘争の解決方を要望し、また、全医労の本部役員の引揚方を要望するに至つた。

このような状況の下で、職員の間でこの事態を一日も早く収拾し、真の療養機関としての機能を発揮せねばならぬという気運が起り、有志職員の呼びかけで同月二六日「医療を守る会」が結成された。

一方、組合員の中からも本部の過激な闘争方針に対して有力な批判が出るに至り、同年二月五日の支部臨時大会において、現執行部は一〇三票対三〇票で不信任されて新執行部が選ばれ、翌六日支部臨時大会において闘争の打切りが決議されて混乱は収拾され、今後、新執行部が「女子職員全部が二日間の生理休暇がとれるよう努力する。」ことになつた。

このように「医療を守る会」は生理休暇闘争の結果もたらされた異常な事態を解決するため、いわば自然発生的に結成されたものであるから、これをもつて、被告の新潟支部に対する分裂工作ということはできない。

四、その他、原告は、本件配置換の意図は全医労新潟支部の弱体化をねらつたものである、とし、その具体的内容として種々述べているが、その中でとくに給食係より医事算定係においては組合活動が十分に行なえないこと、石井ミチ子ほか三名に対する転勤命令と一連同質のものであることを主張している。しかし、

1、全医労所属職員の配属が最も少ない部門は、庶務係であり、ここにおいては庶務課長の監視も可能となろうから、もし、被告に原告主張のような意図があるならば、原告の配置換先として同係を選んだであろう。

また、医事係算定は診療費の請求明細書を指定期日までに支払基金事務所に提出する業務を担当するもので、毎月、月末から月初めの一週間程度診療費算定のため、連日午後九時ごろまで超過勤務を行なうのが通例であるが、それ以外の期間はとりたてて多忙な業務ではない。また、前記期間中であつても、同係員は年次休暇の承認は自由に受けていた事実もあり、全般的に組合活動が行なえなくなる状態にあるものとは考えられない。

2、石井ミチ子の配置換の話しは、本人が東京転勤を希望していたことから、庶務課長が同女の真意を確め、その機会の少ないことを説明したまでのことである。奥沢秀夫の転勤は国立中野療養所の歯科医師の欠員補充の一環として行なつたものである。星山芳郎の配置換内示は、出張所管内定期異動の一環として長期間同一施設に勤務していることを事由に選考されたものであり、その内示に対し本人個人として異存がなかつたが、組合から配置換拒否の運動がなされたものである。

五、原告は本件処分が処分権の濫用である旨主張するが、前記第一にのべたとおり、原告の行為は、懲戒免職に値するものというほかはなく、ことに本件配置換命令に対する原告の拒否態度は極めて不誠実であつて、その情状を酌量する余地はない。

(被告の主張に対する原告の認否)

一、被告主張第一の一の1の事実は不知。

同2の事実のうち、原告が医事係算定への要員として選ばれたことは認め、その理由は不知、その余は争う。同3は争う。

二、同二の1の事実のうち、被告主張の日に、配置換の内示のあつたこと、原告が内示を受けた際配置換に応ずるか否かの態度を明らかにしなかつたこと、その後団交が行なわれたこと、右内示につき発令がなかつたことは、いずれも認めるが、その余は否認する。右団交の際には、「専従から帰つて二、三カ月もしてから出された配置換ならとも角、六月三〇日に第二組合ができたという状況の下で帰るやいなやすぐ配置換をするということは、他に前例もなく、組合に対する弾圧である。給食事務は手不足のはずだ。」と述べたのであつて、「二カ月くらい経つてから配置換されるのであれば異議はない。」と述べたことはない。

同二の2の事実のうち、八月三一日原告に内示があつたこと、右内示に対して、原告がただちには応じられないとの意向を表明したこと、その主張のような人事異動通知書を返送(原告が受理しなかつたので、被告はこれを置いていつた。)したことは、いずれも認めるが、原告が右内示を拒否する際の発言内容は争い、その余は不知。原告は団交で問題を話合いたいと述べたのである。

同二の3の事実のうち、原告らが団体交渉に臨んだこと、確認書が成立したことは認めるが、右団体交渉をもつて集団交渉だとする主張、その余の経過、渡辺、村山らの発言内容、確認書の捺印を組合側が強要したとの点はいずれも争う。

同二の4の事実のうち、原告に内示があつたこと、原告が右内示に対し、拒否したこと、被告が確認書の一部を撤回する旨通告したことはいずれも認めるが、その余は争う。原告は、九月九日に確認書が成立しているのに、その直後に一方的に内示してくるのは、確認書の精神に反するので、内示に応じられないと述べた。

三、同三の1の事実のうち、原告が本件配置換の発令を受けたこと、その後も旧職場で働いていて、九月一八日以降団交開催を求めたこと、正当な範囲内での集会、ビラ貼りなど正当な組合活動を行なつたこと、九月二五日団体交渉が行なわれ、組合側が本件配置換の発令の取消を求めたこと、大塚係官らが事実はわからぬが具合が悪いと述べていたことは認めるが、その余は争う。

同三の2の事実のうち、所長が今井から坂元になつたこと、被告主張の日時に話合いがもたれたこと、原告が本件処分を受けたことは認めるが、その話合いの内容、経過、原告のとつた態度は争う。その余の被告がとつた内部的手続は不知。

四、同四の1の事実のうち、炊夫が従来事実上、朝食を除き食餌運搬をしていたこと、新潟県下調理師連絡協議会が、その主張のような食餌運搬を拒否する闘争を指導していて、新潟療養所の炊夫からもかねてから(その日時は争う。)この趣旨の意見が表示されていたこと、被告主張の日に調理師一同の名をもつて、その主張のような通告をし、炊夫は同日から昭和三五年一月二一日まで運搬拒否を継続したことはいずれも認めるが、給食委員会の答申の点は不知、その余は争う。

同四の2の事実のうち、新潟支部が食餌運搬拒否闘争についてビラ等を発行、配付し、その事実を報道したこと、右闘争が全医労本部の勧告で中止したことは認めるが、その余は争う。

同四の3の事実のうち、被告が臨時人夫を雇い入れたことは認めるが、支出増は不知、その余は争う。

同四の4のうち、人事院審査の対象外になつたことを認め、その余は争う。右事実は、本件の処分説明書に記載されていないから本件処分の理由とすることはできない。

なお、食餌運搬拒否闘争は、全医労が相談にあずかつているものの、主に調理師の自発的行動であり、原告とは関係のないことである。すなわち、全医労新潟地区調理師連絡協議会は、全医労の組合員を主体としていたが、同組合員以外の者も所属しており、また、全医労の方針を指向していたが、全医労とは協力関係にある独自の組織である。

また全医労本部が右闘争の中止を勧告したのは、昭和三四年末に原告が懲戒解雇されたため、厚生省が原告に対すると同様に正当な組合活動である右闘争に対しても処分を行なわないとは限らないと判断したためである。

(証拠)〈省略〉

理由

第一、原告の地位および本件処分

原告は昭和二三年四月三〇日国立新潟療養所(以下、療養所という。)に入所し、請求原因第一記載のような経過で厚生事務官に昇任したものであるところ、昭和三四年一二月一六日被告から、「被告が原告に対し、昭和三四年九月一九日庶務課給食係から、同課医事係(算定)に配置換を命じた(本件配置換命令)ところ、原告はこれを拒否し、その後度々上司から右配置換に応ずるよう注意を受けたにもかかわらず、遂にこれに従わない等上司の職務上の命令に従わず職務上の義務に違反し、且つ職務を怠つた等のことがあつた。」との理由により国家公務員法(昭和四〇年法六九による改正前。以下の同法も同じ。)第八二条第一号、第二号に基づき懲戒免職処分(本件処分)を受けた。

以上の事実は、当事者間に争いがない。

第二、本件処分に至るまでの経緯

一、本件配置換命令に至るまでの経緯

1、(七月一日の配置換内示)原告は、全国の国立病院、療養所の職員の中から構成される全国日本国立医療労働組合(全医労)に所属し、昭和三二年九月から専従の中央執行委員(以下、中執という。)として全医労本部にあつたが、昭和三四年六月三〇日右中執を辞し、七月一日から療養所庶務課給食係に復帰するとともに、新潟支部長に就任したところ、同日被告(当時は今井二雄)から、医事係算定への配置換の内示を受けた。

以上の事実は、当事者間に争いがない。

2、(右内示撤回から九月一日付配置換発令)成立に争いない乙第四七号証、証人横田泰三、加門連一、渡辺三郎丸、高橋浩、今井二雄および原告本人尋問の結果を総合すると、つぎの事実が認められる。

(一) 原告は、前記内示を受けた際、それに対する諾否の態度を留保するとともに、被告に対し、同日自己が新潟支部長に就任したことを報告し、即時右配置換について同支部と団体交渉(以下、団交という。)するように申し入れた。

そして、七月三日新潟支部と被告との間に団交がもたれたが、その際原告から前記配置換に応じられない旨の回答があり、とくに新潟支部執行委員、および全医労本部横田泰三書記長らから「専従から帰つたら、もとの職場に戻る権利がある。復帰後、二、三ケ月経つて落ち着いたところで話があるならともかく、帰つていきなり配置換するのは、組合弾圧である。職場(給食係)の状況は、原告を必要としている。今回の発令を見合せてもらいたい。」旨の抗議があり、これに対し被告は再検討する旨約した。

(二) しかるところ、療養所では右内示どおりの発令をすることが、困難となる事態が発生した。すなわち、当時、給食係に所属していた職員のうち、栄養士一名が七月一日から妊娠悪阻で病気欠勤し、それがかなり長期にわたることが予想され、また同係所属の他の栄養士一名が、七月二日から被告の承認を得ないままに(もつとも、被告は後日これを承認した。)、全医労本部の専従者として上京してしまつたため、給食係が事実上二名欠勤することとなり、被告にとつて原告の前記配置換内示前に、予期してなかつた事態が生じた。そこで、被告は前記団交後ただちに幹部会議を開いて協議した結果、右事情の変化と、この際なるべく組合を刺激させないとの配慮から、原告の前記配置換の発令を留保し、暫時原告を給食係に配置しておくことを決定し、翌七月四日原告にその旨連絡した。

(三) しかし、その後二ケ月を経て、係長クラスの職員二名の所外転出と、その補充人員としての二名の転入の人事異動が行なわれることとなり、これに伴つて所内の配置に若干の異動が必要となつたので、被告はかねて留保していた原告の医事係算定への配置を行なうべく、同年八月三一日原告に対しその旨内示したが、原告から「話が急である。気が進まない。納得できない。」などの理由でこれに応ずることを拒否された。

そこで、被告は原告を納得させたうえで発令しようと考え、他の九月一日付配置換予定者とともに発令を一時留保し、翌日から高橋庶務課長をして原告を説得しようと試みたが、依然として原告の態度が変らなかつたので、同月三日他の予定者とともに、原告に対し配置換の発令をし、原告にその旨の人事異動通知書を交付した。

(四) 原告は、右発令に対し、翌九月四日新潟支部副支部長、書記長らとともに、被告に面会を求め、右発令の理由の釈明を要求して、本人の納得なしになされた右発令に抗議をし、また同日前記人事異動通知書を被告に返送して、爾後の事務引継命令にも従わず、旧職場で従前どおりの給食業務に従事していた。

以上の事実が認められる。

被告は、前記(一)の七月三日の団交の際、原告ら組合側が「二ケ月位経つてから、配置換されるのであれば異議はない。」旨約したことを主張し、証人高橋浩、今井二雄の各証言中にはこれに副う部分があるが、証人渡辺三郎丸、加門連一、横田泰三の証言に照らしにわかに信用できず、その他これを肯定し、前記認定を左右するに足りる証拠はない。

3、(九月一日付発令撤回と確認書の成立)

成立に争いない甲第六号証、乙第四五号証、証人加門連一、村山隆二、萩野秀夫、高橋浩、今井二雄の証言、原告本人尋問の結果および検証の結果を総合すると、つぎの事実が認められる。

(一) 新潟支部では、原告の配置換問題につき同年九月九日被告に団交の申し入れをすることを決め、その旨組合員にも了知させた。また、団交にあたつて、国立新潟療養所職員組合(新職労)(後記のとおり全医労から分裂した、原告のいう第二組合である。)の妨害があり得るとの予想のもとに、部外の柏崎地区労などにも支援を求めた。

(二) そして、同日午後四時三〇分ころ、新潟支部書記長渡辺三郎丸が、療養所本館二階所長室に赴き、被告及び在室していた萩野医務課長、高橋庶務課長に対し、即時新潟支部と団交を開くよう申し入れたが、被告は右課長らと用談中であること及び団交申入れが突然であることを理由にこれを拒否した。しかし、渡辺書記長はなおも団交の申し込みをくりかえし、被告と押し問答を続けたが、そのうち原告および新潟支部組合員、全医労本部阿部中執、全医労新潟地区協議会(地区協。全医労の新潟県下の支部をもつて構成するものであることは、当事者間に争いがない。)書記長村山隆二、その他支援労組員などが、所長室およびその附近の廊下に押しかけ、被告に対し「即時団交を開き、原告の配置換の理由を説明せよ。」などと迫つた。そのため、被告ら管理者側も別室で協議した結果午後六時過ぎに至つて、原告ら組合側と交渉に応ずることとし、所長室において右組合側と右被告ら管理者側三名が交渉に入つた。

(三) まず被告ら管理者側は原告の配置換が業務上の必要からなされたもので、組合側が主張するように組合弾圧の意図がない旨を説明したが、これに対し組合側は右配置換が組合弾圧であるとして白紙撤回を迫り、さらに被告側がこれを拒否する、という水掛論が続いた。

しかし、右のような状態のまま午後一〇時過ぎころに至り、被告側は一旦所長室から退席し、本館階下の庶務課長室で協議した後、高橋庶務課長が被告に代つて前記九月一日付の配置換命令を白紙撤回する旨の回答をした。そこで、組合側は、右回答を文書にする必要があるとして、

「一、組合の申し入れを了承します。九月一日付の辞令は返上されて来たので、これを受理し白紙に返します。

一、事後改めて、米山忠治氏と話し合い、又組合からの話し合いの申出があつた場合はそれに応じます。

一、今後の問題として、人事異動に関しては両者誠意をもつて協議し、本人の納得を得てから行ないます。」

との確認書を起案し、これを被告側に示して押印を求めた。

しかし、高橋庶務課長から、右の文書のうち三項目の「………本人の納得を得てから行ないます。」との文言は、元来被告にある人事管理権の侵害であるから訂正すべきであるとの申出があつて、この点で組合側としばらく議論が続いたが、組合側が右申出を容れて、右の三項目を「今後の問題として、人事異動に関しては、両者誠意をもつて協議の上、決定します。」と訂正した確認書を再び起案した。ところが、再度高橋庶務課長から、前記一項目のうち「………返上されて来たので、これを受理し………」との部分は、自己の発言にないものであるとの異議があり、再びこの点で議論が続いたが、組合側は結局これを容れ、右の部分を抹消して右文書を被告に示し、事態収拾のため押印すべきことを要求した。

これに対し、被告は当初、右のような事項は責任者である自己が確認しているのであるから、このうえ文書を作成する必要を認めない旨述べて、これに押印することを拒否したが、午後一二時近くになつて、組合側全員が退席し被告側だけが所長室に残り協議した結果、これに応ずることとし、右のように訂正された後の書面に被告が押印し、そして原告も全医労新潟支部長として押印し、かくて甲第六号証の確認書が作成されるに至り、右交渉は終了した。

以上の事実を認めることができる。

被告は、確認書のうち二、三項は原告ら多数の者に取り囲まれて、罵詈雑言を浴びせられ、「押印しなければ外に出さない。」などと脅迫された結果、その意に反して押印したものである旨主張し、証人今井二雄はこれに副う証言をし、また証人高橋浩、萩野秀夫、野田松太郎の証言、前掲乙第四五号証、証人高橋浩の証言によつて真正に成立したものと認められる乙第一九号証中にもこれを肯定する部分がある。しかし、一方、証人加門連一、村山隆二の証言および原告本人尋問の結果によれば、脅迫の事実は否定されるところであり、また、右証拠に前掲乙第四五号証、証人小川武治の証言および検証の結果を併せ考えると、当日新潟支部が動員した組合員は、支援労組員を含めて五〇名くらい(成立に争いない乙第六号証には一〇〇名、前掲乙第一九号証には約八〇名となつているが、いずれも前記認定と対比して措信することができない。)であつたが、そのうち所長室に入つたのは多いときで三〇名くらい、少ないときで一〇名くらいであつて、その他は新職労組合員らの交渉妨害に備えて、組合事務室(本館南方の棟)や会議室(本館二階)および廊下などに分散していたこと、また前記交渉中小川課長補佐が所長室を出入りし、午後一〇時前後の被告側の協議に参加していたのであるし、また、新職労組合員(多くは係長ら)一五、六名も医局(本館二階)、事務室、当直室(本館一階)などに居残つていて交渉の成り行きを窺つていたのであるから、被告はこれらの者と連絡し他の支援を求めることも可能であつたにかかわらず、そのような手段をとらなかつたことが認められ、さらに前記認定のとおり、被告らは組合側の起案した確認書につき、その文書が自己の意思に反するとの理由により、二度にわたつて訂正方を申し入れ、組合側と議論のすえ結局訂正させているし、被告が確認書に押印する直前に、とくに被告管理者側だけで協議しているのであるから、かかる事情を総合すれば、前記の交渉は深夜にわたつて多数の組合員と少数の管理者の間で長時間行われ、原告ら組合側の交渉態度が全く平穏なものではなかつたことは推認するに難くないが被告の自由な意思決定を害する程の極端な罵言、喧騒にわたる言動があつたとまでは認めることができず、またその際被告らの退室を、原告ら組合側が一応制止する場面があつたとしても、身体拘束など強いものでなく、若し被告らが決然と交渉を打ち切りその場から立ち去ろうと決意するならばそれも可能な状況にあつたものと推認できる。したがつて、前記被告主張を肯定する証拠は信用できない。

もつとも、証人野田松太郎、萩野秀夫、加門連一の証言によれば、同日午後九時過ころ入療患者四、五名が組合事務室附近の廊下に来て、組合員らに対し「騒ぎを止めてくれ。」などと抗議し、支援労組員らと衝突して言い争いになり、組合側の要請で萩野医務課長が出てその場を静めるという場面があつたことが認められる。しかし、証人野田松太郎の証言および検証の結果によれば、右抗議をした患者らは、第二、六、一一病棟などいずれも所長室(本館)から比較的遠い病棟に入つているものであるが、偶々同夜映画会が所内で催され、その帰りに本館玄関に赤旗が立つていることなどから部外組合員らも所内に居ることを知り、さらに本館に入つて所長室内の様子を知つたのであつて、その抗議の理由も、所内で管理者と組合が闘争を続けることは患者として不穏なものを感じ、安心して療養できないので闘争体形を解いて欲しい、というものであり、騒音が気になるというものでない(かえつて、本館に近い病棟からは、患者の抗議はなかつた。)から、右患者らの抗議の事実をもつて、前記交渉が喧噪を極めたことの証左とすることはできない。また、このような患者の微妙な心理の動きを知悉している被告らが、患者の療養面に責任を持つ立場として患者への心理的影響が及ぶことを心配し、前記のとおり深夜にわたる組合との交渉を早急に終結させたいと考えるに至つたことは、右の事実からも窺えないわけではないが、それが被告の確認書押印の一つの動機になつたことはともかく、自己の意思に反してまで押印しなければならなかつた事情とは、到底認められない。

また、被告は確認書に押印したのは、「翌日改めて配置換の発令があれば原告はこれに応ずる」旨のいわば裏約定があつたからだと主張し、証人今井二雄、高橋浩、萩野秀夫、小川武治はいずれも「地区協の村山書記長から『発令の形が悪いのだ。今日撤回して明日発令してもいいんじやないか。』とくり返し発言があり、これに対し同席した原告も他の組合員も異議を示さなかつた。そして庶務課長から原告本人の意思を確めてみる必要があるとの提案があり、被告は村山を介し、原告本人も同じ意思であることを確めてもらつた」旨、証言している。しかしながら、原告ら新潟支部が多数の組合員を動員し、深夜にわたるまで交渉を続けたのは、原告の配置換が組合弾圧であると考え、右配置換の白紙撤回の要求を貫徹せんがためであつたことは前記認定に徴し明らかなところである。しかも、配置換を白紙撤回せよ、しないの水掛論に終始していた交渉が、強硬な態度をとる原告ら組合側に特別な事情の変化も認められないのにかかわらず、急転直下、解決の方向に進んだ(確認書の文言で再び議論が続いたが。)ことを思えば、確認書を作成したのは原告ら組合側の要求が受け容れられたためとみるほかはなく、原告らが当初の意図に反するような裏約定をなしたとみるのは不自然である。このような事情に照らせば、前記証拠はにわかに信用できず、証人村山隆二、加門連一の証言、および原告本人尋問の結果にあるとおり原告ら組合側からは「白紙撤回すれば、明日からでも話し合いに応ずる。」との発言があつたことが認められるにとどまり、被告主張のような発言ないし裏約定はなかつたとみるのが相当である。もつとも、証人小川武治の証言によつて真正に成立したものと認められる乙第八号証には、同年九月一一日小川課長補佐と原告との問答の記載があり、その中で、小川が「九日有明療村山氏を通じ君の方の希望を聞いた。明日にでも辞令を出しても良い、……ということでなかつたか。」と発言したと記載され、その発言には前記裏約定のあつたことが前提となつているが、同号証には同日その前に、原告が「……又九日あのように話が決つてすぐ又持ち出すのは納得できない。」と発言した旨の記載もあり、これは右小川の発言と矛盾するところであるので、乙第八号証をもつても未だ被告の主張を肯定できない。また、証人加門連一は、確認書に双方が押印した後、被告が「ほんとうに、はつきりちやんと約束したことは守れよな。」と発言したと証言しており、右発言中の「約束」が前記裏約定を指すのではないかとの疑いも生ずるが、確認書の内容からもわかるように被告ら管理者側は、確認書の調印により、原告の配置換をあきらめたわけではなく、右確認書において約された協議を経た後これを実現したいものと考えていたことは明らかであるから、前記証言をもつて、ただちに被告主張の事実を裏づける資料とすることはできない。

4、(九月一〇日の配置換内示)被告が右確認書成立の翌日九月一〇日、原告に対し、再び医事係算定への配置換の内示をしたので、原告がこれを拒否したことは、当事者間に争いがなく、前掲乙第八号証、証人小川武治、高橋浩、および原告本人尋問の結果によると、被告は同年九月一〇日から同月一六日ころまでの間、高橋庶務課長、小川課長補佐を通じ、原告に対し、新配置につくようたびたび説得に当らしめたが、原告は「九日にあのように決つたのに、すぐ内示するのは納得できない。組合弾圧だ。」などと言つて、これに応じなかつたことが認められる。

5、(本件配置換命令)しかして、被告は、同年九月一七日新潟支部に対し、確認書のうち第二、三項を撤回する旨通告し、同月一九日原告に対し、人事異動通知書を発して本件配置換命令を発したことは、当事者間に争いがない。

二、本件配置換命令に対する原告の態度および本件処分までの経緯

1、原告が、本件配置換命令を受けた後も、これに従わず本件処分を受けるまでの八八日間、旧職場にとどまつて従前どおり旧職場の業務に従事していたことは、当事者間に争いないが、その間の経緯はつぎのとおりである。

2、すなわち、成立に争いない甲第五号証の一、第七号証の一、二、乙第一〇号証の一ないし一四、第二一号証の一、二、第二二号証、第二三号証、第四六号証、証人渡辺素良の証言によつて真正に成立したものと認められる甲第一二号証、証人高橋浩の証言によつて真正に成立したものと認められる乙第二〇号証、弁論の全趣旨によつて真正に成立したものと認められる乙第九号証の一ないし一九、前掲乙第一九号証、第四五号証、証人横田泰三、坂元正徳、渡辺素良、遠藤保喜、今井二雄、高橋浩および原告本人尋問の結果を総合すると、つぎの事実が認められる。

(一) 新潟支部では、被告から確認書撤回通知を受けるに至り、これを組合に対する挑発と考えて激怒した。加えて、新潟支部では、原告の配置換問題の直後の同年七月一七日に内示があつた療養所歯科医師奥沢秀雄(新潟県医療労働組合協議会((県医労協。新潟県下の国立、公立、民間各医療関係労組をもつて構成する。))議長。)に対する千葉県内の国立習志野病院への転勤問題(右内示があつたこと、県医労協の組織の点は当事者間に争いがない。)についても、被告ならびに厚生省が新潟支部、および県医労協の組織弱体化を企図してなしたものと考えてこれに反対していたところ、九月一七日奥沢の反対意思を押し切つて、同人の転勤が発令されたために、被告ら管理者側に対する態度をますます硬化させた。

そして、新潟支部は、原告の配置換、奥沢の転勤問題について、被告に対し抗議をするべく、九月一九日ころ県医労協および全医労関東信越地方協議会(関信地方協。関東信越地区の各支部をもつて構成するものであることは、当事者間に争いがない。)のオルグをあおぎ抗議態勢をとるとともに、同日右三者に部外の柏崎地区労を加えた四者は連名で被告に対し確認書撤回についての抗議文を送り、さらに被告に面会を求めたが、被告および庶務課長らが療養所に姿を見せなかつたので、爾後は所内において右配置換、転勤につき反対決起大会などを開いて気勢をあげ、また夜半療養所構内、管理者側の官舎などに「奥沢さんの転勤反対」、「所長課長……確認書を尊重せよ」、「起きれよ所長、逃げるな課長」、「労働者を甘くみるな」などと書いた抗議ビラを貼るなどした。また九月二〇日ころから一〇月二七日ころまでの間、全医労、地区労、医労協などから、被告ら管理者の自宅に、深夜数度に亘り右配置換、転勤に抗議する旨の電報が打たれ原告も自ら一通発信した。

(二) 九月二五日厚生省、関東信越医務出張所(以下、医務出張所という。)の係官が来所したので、同日午後二時ころ原告をはじめ新潟支部役員、労組員、関信地方協議長、県医労協書記長、部外労組員らを含む一〇〇名近くが療養所内に集まり、そのうち原告ら三、四〇名が庶務課長室において、前記係官および被告ら管理者側をとりかこみ、前記奥沢の転勤と原告の配置換発令につき罵言、雑言をまじえて抗議するとともにその取消を要求したが、このような状態は、翌二六日午前六時三〇分ころまで続き、その間に厚生省係官は血圧昂進のため医師の診断を受け、高橋庶務課長は嘔吐する事態もあつた。

(三) このような事態が継続したため、被告は一〇月一四日、厚生省官房人事課宛の原告の懲戒免職協議書を、医務出張所に提出した。しかし、処分発令まで若干の日時があるので、その間に原告の翻意を期待して、高橋庶務課長を通じて新配置につくよう命令したが、原告はこれに対し、「私一存だけでは決まらない。中央で話を進めているから、その方向で話を決めたい。」などと云つて応じなかつた。また被告は、一〇月一五日到達の内容証明郵便をもつて、右同様の命令をしたが、原告は右命令に答えず服しなかつた。

(四) そして、一〇月一五日、当時被告の職にあつた今井二雄は、一身上の都合で退職し、同日付で医務出張所長坂元正徳が被告の職を併任することとなつたが(右所長交代の事実は、当事者間に争いがない。なお、坂元正徳が被告および医務出張所長を併任する立場であるとき、以下単に坂元という。)、坂元もまた、原告に新配置につくよう説得しようと考え、被告の上級機関である医務出張所長の立場で、前記懲戒免職協議書の厚生省に対する進達を留保し、そのころ病気入院中ではあつたが、一〇月一八日および同月二三日被告の立場で、庶務課長をして原告を説得させようとしたものの、原告の態度は変らなかつた。

(五) その後全医労横田泰三書記長関信地方協井上五郎関信地方協佐藤副議長らの努力で、事態解決のため、坂元は直接原告と話し合うことを承諾した。

(六) そして、坂元は療養所高橋庶務課長を通じ、原告に対し、一一月二四日入院中の大蔵病院に出張するよう命じたが、原告はこれに対し〈1〉出張の目的がはつきりしない。〈2〉自分の配置換の件であれば、全医労に一任してある、との内容の文書を被告宛に提出して、命令にしたがわなかつた。

(七) ところで、一一月三〇日全医労本部と、井上、佐藤、それに原告を含む新潟支部役員らが、合同で原告の配置換問題につき、今後の組合としての対策を協議したところ、〈1〉前記奥沢の転勤問題について、一〇月四日全医労と坂元との間で「被告が組合弾圧のためでないことを確認し、奥沢は坂元から辞令を受けることで転勤に応ずる。」旨の話合いがまとまり円満解決していること。〈2〉被告および新職労との関係において、新潟支部の新たな分裂を防ぎ、組織を維持できる情勢に至つていること。〈3〉前記出張命令が発せられた経過を原告が熟知していなかつたため坂元の真意を原告がくみ取れなかつたことが確認された、などの情勢から、「全医労本部と関信地方協の立会いのもとに、原告と坂元が話し合いのうえ解決する。坂元から配置換が組合弾圧でないとの保証さえとれれば、原告はこれに応ずる。」との方針を確立した。

(八) 右方針にもとづき、原告および全医労岩崎清作委員長らは、一二月四日坂元に面会し配置換問題につき話し合つた。しかし、坂元が原告に対し新配置につくよう指示したのに対し、原告らは、配置換は組合弾圧だと主張するだけで、話し合いは平行線をたどつたまま終つた。

(九) そこで、坂元は翌五日から七日にわたり前記組合幹部および原告と話し合いを続けた結果、七日に至り、坂本が被告の真意を説明したうえ、「本件配置換を組合弾圧ととられたのは遺憾で、被告としてはその意図がない、今後も組合の意向を尊重する」ことを言明し、組合側もこれを了承して、右の範囲では両者の意見はほぼ一致するに至つた。そこで、組合側は原告に対し懲戒処分をしないことを条件に本件配置換に応ずる意向を表明したところ坂元は「免職処分以外の懲戒処分までをも行なわないことは約束できない。」と主張し、この点で両者相譲らなかつたので、坂元から「本省と相談のうえまた話したい。」ということで、七日の話し合いも終つた。

(一〇) 坂元は、その後厚生省に右話し合いの経過について報告したが、一二月一〇日には全医労本部に対し、右話し合いを打ち切る旨を通告した。(右通告があつたことは当事者間に争いがない。)そして、坂元は一二月一二日前記原告の懲戒免職協議書をその後の経緯意見を加えて医務出張所から厚生省官房人事課長に進達した。

(一一) 原告および全医労では、一二月一三日ころ右のような坂元との交渉打切りに至るまでの情勢を分析し、このまま新配置就任拒否を続ければ、原告に対しなんらかの懲戒処分が出されることが予想され、かつ全医労としてその処分を打ち破る態勢が整つていないなどの諸般の事情から、原告が処分問題と切り離して、新配置につくべきである、との結論に達した。

(一二) そのため、原告は一二月一四日横田、井上らとともに、坂元を訪ねたが、会えなかつたので、厚生省医務局北川管理課長に面会を求め、同人に対し「原告は新配置につく用意がある。」旨申し入れた。しかし、北川課長はその真意を確かめるべく翌一五日厚生省に横田、井上および原告の来訪を求め、原告を別室におき、横田、井上だけと会談し、横田らに右申し入れと懲戒処分問題との関連を問いただしたところ、横田らから「公務員の良識に従つて新配置につくが公の処分をされては困る。」との答えがあつた。そこで、北川課長は、厚生省としても処分の協議書について内部の意思決定が済んでいる段階であるので、横田らに原告が長期にわたり配置換に服さなかつたことにつき、真に反省した旨の書面を出すべきことを要請したが、横田らは右書面提出に難色を示し、「原告本人に口頭で詫びさせることは良いが、一札(右書面のこと)を入れることは困る。」との態度をとり、話合いはまとまらなかつた。

(一三) そこで、横田、井上は、さらに医務局次長室で、黒木次長と会談したが、両者の間に右書面提出に関連して、全医労本部ないし新潟支部が、本件の闘争でとつた態度に話がおよんで、とくに黒木次長から、全医労本部ないし新潟支部が指導した過去の生理休暇、権利闘争あるいは合理化闘争などに対して非難が浴びせられ、さらに「白旗をかかげ、運動方針をかえてわび状を入れるなら、原告の件も刑一等を減ずることを考えても良い。」などと言われたので、横田らもその態度を硬化させた。そのため話し合いは進展せず、結局黒木次長が「明朝(一二月一六日)の九時半まで待つから、もし一札を出さなければ発令する。」と述べたのに対し、横田らは翌日右回答をすることを約した。

(一四) 翌一六日全医労は、原告をまじえて協議した結果、黒木次長の発言は組合を誹謗するものであり、黒木次長の求めるような書面を差入れることは結局全医労に対して頭を下げさせるものであるから提出を拒否すべきであるとの結論に達し、同日午後一時三〇分ころ岩崎ほか全医労中執ら一〇名くらいが、黒木次長を訪ね、「前日の組合に対する誹謗に抗議する。原告は新配置につく。」とだけ通告した。

(一五) 右通告を受けて厚生省は同日午後四時三〇分ころ、既に同月一四日に決定していた原告の懲戒処分協議書の承認書を、坂元に交付し、同人は被告の立場で前記のとおり、本件処分を発令した。

以上の事実を認めることができる。

証人坂元正徳の証言中、前記(九)の事実に反する部分は、証人渡辺素良、横田泰三の証言に照らし、証人遠藤保喜の証言、前掲乙第四六号証の記載中、前記(一三)の事実に反する部分は、証人横田泰三の証言、原告本人尋問の結果に照らし、いずれもにわかに信用できず、その他前記各認定を覆すに足りる証拠はない。

第三、原告の不利益取扱いの主張について

一、(全医労新潟支部の生休、権利闘争と新職労の分裂)

成立に争いない甲第一号証の二、第二号証、乙第一三号証、第一四号証、第二四ないし二八号証、第四二号証、第四四号証、第四八号証、証人林マサの証言によつて真正に成立したものと認められる甲第一号証の一、証人小林寿永松の証言によつて真正に成立したものと認められる乙第二九号証の一ないし三、第三〇号証の一ないし三、証人萩野秀夫の証言によつて真正に成立したものと認められる乙第三二号証、第三三号証、証人野田松太郎の証言ならびに弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第三四号証の一、二、第三五号証、第三六号証、証人生垣浩の証言ならびに弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第三七ないし四一号証、前掲甲第一二号証、証人林マサ、渡辺素良、渡辺三郎丸、広川慶子、加門連一、生垣浩、萩野秀夫、野田松太郎および原告本人尋問の結果を総合すれば、つぎの事実が認められる。

1、昭和三三年六月一〇日ころ、療養所内に発生した盗難の嫌疑が、同所勤務の山田マサ准看護婦(当時一九才)にかかり、同人は警察の取調を受けたことを苦にして自殺を図つたが未遂に終り、その後警察の同人に対する捜査も打ち切られたが、同人の父が警察の取調の方法に人権蹂躪があつたとして、人権擁護委員会に提訴するところとなり、同年一一月県医労協および警職法反対運動新潟共闘会議が警察の責任を追及する運動をおこすとともに、また新潟支部でも警察に山田の身柄を引渡したのは、被告ら管理者であるとして責任追及に乗り出した。

2、右事件を契機として、新潟支部では昭和三三年一一月二五日ころから「山田准看護婦の人権問題は、実は組合員の日常の権利につながる。」との見解の下に、職場における組合員の権利を確立することを目的として職場闘争の方針を決定した。この方針には、当時医局の医師など一部組合員の反対はあつたが、多くの一般組合員の支持を得て、生理休暇を要求する闘争(以下、生休闘争という。)、本来の業務でない仕事を拒否する闘争などの権利闘争(以下、権利闘争という。)へと発展していつた。

3、そして、同年一二月二六日の新潟支部臨時大会では、これら方針に消極的態度を示した支部執行部は総辞任し、右闘争の主力になつた者が新執行部に就任し、爾後ますます闘争は激化した。すなわち、新執行部は生休闘争で、看護婦が人事院規則一〇―四第一七条の二にいういわゆる有害業務であるとの見解にもとづき、「看護婦は誰でも最低二日間の生理休暇を請求できる。その請求の方法は、その日の朝電話でも良い。生休者の仕事の穴うめは婦長らの考えることだから、私たちは考えることはない。年次休暇や公休も、生休とは別にとる。」などと指導したために、従来生理日の就業が著しく困難な者一、二名が生休をとつていたにすぎなかつたのが、昭和三三年一二月には延人員六一名、翌年一月には同一〇四名に達する者が生休をとるに至り、しかもその取り方は右組合の指導にもとづき、まつたく予告せず、互に生休者の業務を穴うめすることなく、とくに夜勤者が真夜中勤務交代直前に電話による生休届出をし欠務する状態であつたため、看護婦の勤務割の組替に困難を生じ業務の正常な運営に支障を生ずるに至るほどのものであつた。また、権利闘争の一環として、看護婦が昭和三三年一二月二八日を期して、本来の業務でないとして食器洗いを拒否し、看護助手らも超勤を拒否するなどの事態が生じたうえ、年末年始の特別休暇をとる者もあつて、療養所の看護力は著しく低下した。

4、このような生休、権利闘争のために、看護業務に支障を生じ、被告は常にある程度の看護予備を持つ必要があつたので、手術件数を削減し、昭和三四年一月一七日には手術後の観察病棟である第七療棟を閉鎖せざるを得なくなつた。ところが、これらの事態は入療患者に大きな不安を与え、看護婦と患者間にトラブルを生じ、昭和三四年一月一一日ころ患者は、患者の療養所生活を守り、その妨げとなる障害を排除することを目的として、右闘争に対する特別対策委員会を患者自治会である「新療会」の専門部会として設け、被告および新潟支部の双方に対し、闘争の解決方を要望するに至つた。

また、一方同年一月二一日ころから組合員のうち主として医師、係長らから、右のような患者に不安を与えている事態を一日も早く収拾し、真の療養機関としての機能を発揮せねばならないという気運が起り、右の者を中心とした有志九名の呼びかけで、同月二六日前記闘争に反対する「医療を守る会」が結成された。

5、その後、「医療を守る会」の趣意に同調する者が次第に増え、同年二月三日の臨時支部大会に至り、前記闘争の中心だつた執行部は、一〇三票対三〇票で不信任されて、「医療を守る会」の推せんによる者により新執行部が誕生し、同月六日新執行部は支部大会を開き、「闘争態勢を解き、生理休暇の実施については従来のような無差別な取り方をやめ、就業が著しく困難な者はとつてもらう。目標としては、女子職員全部が二日間の生理休暇がとれるよう努力する。」等を提案して承認され、前記生休、権利闘争は打ち切られた。

6、しかし、右の新執行部の方針に反対する者は、学習サークルとして「雑草グループ」を作り、従来の闘争を続けるとともに、昭和三四年六月一一日の全医労第一三回定期大会にも出席して発言をしたが、一方この大会において「医療を守る会」の発起人九名が全医労本部から除名処分を受けるに至つた。

そして、同年六月三〇日新潟支部大会において、新執行部が右全国大会に出席した「雑草グループ」の者三名を除名する動機を提案したことから、二派に分裂し、「医療を守る会」派の組合員一七七名は新職労を結成し、一方「雑草グループ」派の中心メンバーが新潟支部に残つて、前記のとおり復帰した原告を支部長に迎え、新たに執行部体勢(組合員約七〇名)を確立した。

以上の事実を認めることができる。

二、(生休、権利闘争等の組合活動および新職労分裂に対する被告らの態度)

1、原告は山田マサの窃盗容疑事件につき、被告がいわれなく同女を警察に引渡すなどその人権を侵害する行為をした旨主張するが、前掲甲第一号証の一、第一二号証、証人林マサの証言によつても未だこれを認めることができず、その他の右主張を裏づける証拠はない。

次に新潟支部の生休闘争、権利闘争が活発になつた後である昭和三四年一月一九日から約二〇日間、医務出張所次長太田鼎三が、療養所に滞在したことは当時者間に争いがない。原告は、その直後に「医療を守る会」が誕生し、組合が分裂するに至つたのは、太田次長が被告ら管理者側を指導し、全医労新潟支部の組織の弱体化を企図して工作した結果である旨主張するが、弁論の全趣旨によつて真正に成立したものと認められる甲第四号証、前掲甲第一二号証、証人渡辺三郎丸、加門連一、広川慶子の証言、原告本人尋問の結果をもつても、右主張を肯定するに足らず、その他これを認めるに足りる証拠はない。もつとも、成立に争いない乙第四九号証、前掲乙第三三号証第四四号証によれば、医務出張所では、前記のとおり生休、権利闘争の結果、療養所の正常な運営が害され入療患者にも不安を与える結果になつている旨の報告を受け、事態の調査と療養所の正常な運営を図るため、太田次長を前記期間療養所に派遣し、療養所管理者とともに職員に対し、生休闘争の非なることを説得させ、業務の正常な運営を回復することを図つたこと、すなわち、太田次長は同年一月一九日ころ、被告が職員一同を会同せしめた席上において、生理休暇に対する厚生省の公式見解を披瀝し、生理のため就業が著しく困難な者に限り、休暇の請求があれば与えられるものであつて、看護婦が一率に有害業務として無条件に二日間請求できるものではないこと、および公務員としてまた医療従業員として職務遂行に遺憾のないようにすべきであるとの注意を喚起したこと、しかし、その間も組合の闘争はますます激しくなつていく状況にあつたところ、その後療養所側は新潟支部に対して再三にわたり話し合いを申し入れたが、拒否されたので、やむなく同年一月二三日ころ組合執行委員らを個別的に所長室に招致して、被告に代つて太田次長から同役員らに対し、同人らの職員としての立場において人事院規則について組合側の解釈に誤りがあるから、生理休暇についての闘争を中止するよう命じ、また組合役員としての立場については誤つた見解にもとづく闘争は速やかに中止されるよう要望したこと、以上の事実が認められる。この事実によれば太田次長は療養所の業務の正常な運営が阻害され、このうえ患者の療養、看護に支障が生ずることを憂慮し、事態の悪化を防ぐため、公務員として正当な職務上の意図をもつて、生理休暇に対する厚生省の見解にもとづき、職員に対し同じ公務員としてこれに従うべきことを注意、勧告し、また、組合役員に対し闘争中止を要望したのであるから、太田次長のこのような行為をもつて新潟支部に対する弾圧であるとか、その弱体化を図つたものであると認めることはできない。

また、前掲乙第三七号証、第三八号証、証人萩野秀夫の証言によれば、前記のとおり「医療を守る会」の発起人となり、その後新職労結成の中心となつた者は、庶務係長や医局の医師などそのほとんどが組合のいう職制の地位にあるものと窺われるが、これらが太田次長や被告らから煽動されて動いたことを認めるに足りる証拠はなく、前記一に認定のとおり、右の者は、いずれも組合員の立場において当時の執行部の過激と思われる闘争方針を批判して自発的に行動したものと推認せざるを得ない。したがつて、「医療を守る会」の結成をもつて、被告の反組合的意図のあらわれと認めることはできない。

2、新潟支部が闘争中である昭和三四年一月二四日支部書記長渡辺三郎丸が、被告から職場離脱を理由に一ケ月の停職処分を受けたことは、当事者間に争いがないところ、原告は右処分が組合弾圧のための不当な処分である旨主張する。しかし、前掲乙第四二号証によれば、渡辺書記長が昭和三三年一二月一六日から昭和三四年一月二四日まで(但し、昭和三四年一月一日、三日、四日は勤務)正当な理由がなく職場離脱をしたことが認められ、原告主張のような右処分の不当性については、前掲甲第四号証、第一二号証をもつても未だ証するに足らず、その他これを肯定する資料はない。

3、生休、権利闘争が始まつた後である昭和三四年一月下旬ころ、被告が療養所内での集会を禁止したことは、被告の自認するところであり、成立に争いない甲第三号証の一ないし三六および原告本人尋問の結果によれば、新潟支部では同年一月末から七月三日の団交があるまで、所内組合事務室で勤務時間外に開かれる執行委員会、同時間外の印刷謄写に至るまで、被告にその旨届出をしていたことが認められる。しかし、成立に争いない乙第四三号証の一、二および証人今井二雄の証言によれば、生休闘争が始まつてから管理者に無断で療養所内に新潟支部と意を通ずる部外の者が常に出入りし、迎賓館などもそれらに占拠されるという状況になり、また廊下などに勝手にビラが貼られるなど所内の秩序が非常にみだれ、被告としては放置できない状態にあつたので、庁舎管理権にもとづき「勤務時間中の所内集会を禁止する。勤務時間外といえども被告の許可なく所内集会を開催することを禁止する。迎賓館などに被告の許可なく部外者を宿泊させ、出入りさせてはならない。」旨を所内に公示し、同時に新潟支部にもその旨通告したことが認められるが、右通告によつて組合事務室内での勤務時間外の集会や謄写印刷にいたるまで禁止したものと解することはできず、その他これを被告が禁止したことを認めるに足りる証拠はない。そして、右認定の部外者による無断所内立入、迎賓館占拠および廊下等へのビラ貼りは生休闘争の当否いかんにかかわりなく、所内の秩序をみだすものとして正当な組合活動と認めることはできないから、被告の右禁止行為は、所長として正当な行為であり、組合活動制限等にならないことは明らかである。

4、また、原告は、患者が生休、権利闘争に抗議するようになつたのは、被告およびその意を体した反組合勢力から、医局を中心に、生休闘争等が患者に不安を与えるよう煽動したからだと主張し、前掲甲第四号証、および証人渡辺素良の証言中にはこれに副う部分があるが、前掲乙第三四号証の一、二、第三五号証に照らし、にわかに信用できず、その他これを認めるに足りる証拠はない。

三、(配置換の意図)

1、原告に対する配置換問題は、原告が全医労本部から帰任した翌日である昭和三四年七月一日からはじまつていること、そのころは新職労結成直後であつて、新職労(一七七名)と新潟支部が対立していたことは、前記認定のとおりであるところ、証人渡辺素良の証言、原告本人尋問の結果および弁論の全趣旨によれば原告の復帰する給食係は、係長を除き全員(一九名)が支部組合員であり、量質ともに支部組合の活動の中心であつたのに対し、配転先である医事係は係員九名中七名が新職労組合員であつたことが認められる。原告は、本件配置換の意図は原告を右のような不慣れな仕事と新職労組合員に囲まれた環境の下におき、組合活動を十分行なえないようにするためである旨主張する。

しかし、前掲乙第四五号証、証人高橋浩の証言によれば、原告の配置換先の医事係算定は、診療費の請求明細書を指定期日までに支払集金事務所に提出する業務を担当するもので、毎月月末から月初めの一週間程度、診療費算定のため、連日午後九時ころまで超過勤務を行なうのが通例であるが、それ以外の期間はとりたてて多忙というわけでないこと、また、右業務は給食事務に比較すれば、細かい事務をとるが、通常人の注意力と能力さえあれば誰でもできることであり、とくに特殊な技能を要するものでないことが認められ、証人小暮三郎の証言中右認定に反する部分は信用できない。

そうだとすれば、原告が右業務に慣れる間および右多忙期間中、その組合活動に若干の時間的制約を受けることがあろうことは否定できないが、それはどの配置換にあつても多かれ少かれおこり得ることで、本件配置換についての固有の現象ではないし、原告が本件配置換に服しても全般的に組合活動が行なえなくなる状態にあるとは認められない。また、原告のように二度にわたつて全医労本部中執として専従し、現地にあつては新潟支部長の地位にある活動家が、新職労組員(原告のいう第二組合員)が多数勤務する新職場に配置換になつたというだけで、その環境に支配され日常の組合活動が萎縮するものとは到底考えられないところであるのみならず、検証の結果によつて認められるように右配置換が同じ療養所でのわずかな場所的移動であることに過ぎないことを考慮すれば、右配置換が原告にとつて国家公務員として許された範囲内の正当な組合活動をするうえで妨げになるとは考えられない。さらに原告主張のように、給食係が係長を除き全員一九名が新潟支部に所属し、同支部の活動の中心であつたことは、前記認定のとおりであるが、かかる同支部の拠点ともいうべき給食係に少数のいわゆる第二組合員と目される者が入つたとしても、同係組合組織の破壊されるということは予想することができない。

2、かえつて、成立に争いない乙第四号証の一ないし三、証人小林寿永松の証言によつて真正に成立したものと認められる乙第五号証の一ないし五、前掲乙第四五号証、第四七号証、証人高橋浩、今井二雄の証言を総合すると、昭和三四年春の国立療養所長、事務部長、庶務課長会議において、厚生省から医事係算定の強化が指示され、同年四月二〇日に右指示の実施のための診療費の算定ならびに請求業務の取扱要領についての厚生省医務局長通達が出され、被告は右業務を担当する療養所庶務課医事係算定業務を強化整備することが必要となり、そのため同年六月当時算定に配置されていた職員のうち、疾病あるいは年令その他事務能力において十分なものを備えていないと思われる者を同係から転出せしめ、その代替要員として比較的事務能力に富んだ者を医事係算定に配置することとしたこと、しかるところ、〈1〉原告が、昭和三二年九月二期目の中執に出るとき、原告は復帰後どの職場へ移されても異議のない旨述べて被告の承認を得ていたこと、〈2〉原告が従来所属していた給食係には、原告が本部専従中に事務員が補充されており、当時の員数をもつて十分業務を遂行しうる状態にあつたこと、(もつとも、栄養士一名が妊娠悪阻で病気欠勤をし、他の栄養士が被告の承認のないまま中執に出てしまつたが、前者は一時的欠務状態であるし、後者は被告がこれを事後承認した後の同年九月一日ころ事務員一名が補充されている。また、給食係がそのころ人員不足を訴えていたことが窺われるので、職員にとつて必ずしも満足すべき人員配置といえないかも知れないが、少くとも昭和三一年以来の給食業務量との関係において、とくにそのころ手不足という状態ではなかつた。)〈3〉原告は事務の経験としては通算して二年八ケ月くらいであつたが、中堅事務職員としての能力を有しており、給食係勤務も一一年(但し、中執で専従した期間をも含む。)の長期におよんでいるから、この際、他の業務につかせることは、人事管理上好ましいし、本人のためになる、などの事情から、算定係への補充人員の一人として原告を選んだことが認められ、右認定に反する原告本人尋問の結果は信用できない。

右事実によれば、原告の配置換は業務上の必要性にもとづいたものであることは明らかである。

この点に関し、原告は、被告が給食係から原告のほか一名を他へ配置換し、一方給食事務に未経験な職員二名を同係に配置換をしたが、このような給食係の業務の正常な運営の期待できないような一連の配置換をすることは、原告の配置換が業務上の必要に基づいていないことを意味する旨を主張する。なるほど、前掲乙第四五号証によれば、原告主張のような一連の配置換がなされたことが認められるが、同号証によれば、給食事務は特別の知識経験を有しなくても通常の事務能力を有する者であれば処理し得るものであることが窺えるのであつて、右配置換により未経験な職員を配置したため、その後の正常時における給食係の業務に支障を来したものと認むべき証拠はないから(もつとも、本件配置換命令拒否および後記認定の食餌運搬拒否によつて惹起された影響は別問題である。)、原告の右主張は理由がない。

3、また、原告は原告の配置換問題に続いて起きた組合活動家の転勤問題は、被告の組合弾圧等の意図を裏づけるものである旨主張し、療養所歯科医師奥沢秀雄(県医療協議長)の転勤内示が昭和三四年七月一七日にあつたこと、さらに国立有明療養所事務官星山芳明(地区協議長)に対し、霞浦病院への転勤内示が同年八月一日あつたことは、当事者間に争いがないところである。

しかし、前掲乙第四九号証によると、奥沢の転勤は国立中野療養所の歯科医師の欠員補充の一環として行なつたものであり、星山の配置換内示は、出張所管内定期異動の一環として、長期間同一施設に勤務していることを事由に選考されたものであつて、いずれも同人らが組合の活動家である故をもつて異動の対象になつたものではないことが認められ、右認定に反する前掲甲第一二号証・証人渡辺素良、村山隆二の証言は採用できない。もつとも、成立に争いない甲第五号証の二、三によれば、奥沢の転勤問題で同年一〇月九日高橋庶務課長が同人に詫び状を入れていることが認められるが、証人高橋浩の証言によれば、右詫び状を書いたいきさつは、同年一〇月七日高橋庶務課長が右転勤問題などで新潟支部の集団抗議を受けた際、同支部から「第二組合員から頼まれた職員が、厚生省に対し、奥沢医師を転勤させよ、との投書を出した者がいる。課長として部下の行為に責任を感じないのか。」などと強く詰問されたために、自己の監督不行届を認めるということで作成したことが窺われるから、前記詫び状提出の事実をもつて、被告らの右転勤問題に対する悪意を裏づけることとはならないというべきである。

また原告主張の新潟支部副支部長石井みち子の転勤勧誘の問題も成立に争いない乙第二号証、証人高橋浩の証言、および弁論の全趣旨によれば、本人より提出された身上調書に東京転勤希望の記載があつたことについて、庶務課長が同女の真意を確めたに過ぎないことが窺えるから、これをもつて被告ら管理者を非難するにあたらない。

4、原告は、従来、療養所では予め被告が組合の了解を求め、さらに本人の内諾を得てから配置換を発令するのが慣行である旨主張し、証人横田泰三、渡辺三郎丸、渡辺素良の証言および原告本人尋問の結果中には、これに副う部分があるが、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第五〇号証、その方式および趣旨により真正に成立したものと認められる乙第五一号証ならびに証人今井二雄の証言に照らし、右証拠はにわかに信用できず、その他これを認めるに足りる証拠はない。

四、(確認書の撤回)

ところで国家公務員法第九八条第二項は、職員団体と当局との協約締結権を否定しており、また同法には、地方公務員法第五五条第九項のような文書の交換、取極に関する規定を欠くところである。しかし、国家公務員の職員団体といえども当局と事実上、文書の交換、取極をなすことを禁ずる趣旨とまでは解せられないが、このようにして交換、取極められた文書は当事者に対し法的拘束力を有するものではないから、本件において被告が右確認書による合意を撤回することにつきなんらの法的制約がないだけでなく、原告主張のようにこれが上級庁の指示によるとの証拠はなく、(証人高橋浩の証言によると、右撤回が、渡辺三郎丸に関する人事院審理で、医務出張所次長と被告が面接した直後になされていることが認められるが、この事実からは未だ右主張を推認できない。)かえつて前掲乙第四九号証、証人高橋浩の証言によると、被告は確認書の趣旨が本来、被告にある人事管理権を制限する形になつて好ましくないと考え、自ら撤回を決意したことが推察できるので、被告の右撤回が道義的非難を受けることは格別、これをもつてただちに、被告の反組合的意図や原告に対する不利益取扱の意思を推認することは困難である。

五、原告は最終段階において、本件配置換につき被告との間で話がまとまりかけており、また、本件処分直前に原告から配置換に応ずる旨の意向が示されているのに、被告が本件処分におよんだのは不利益取扱の意図によるものである旨主張する。しかし、前記第二の二の2に認定したように、原告が坂元に対し本件配置換に応ずることを申出たものの、それは懲戒処分を行なわないことを前提としていたため、この点で坂元と話合いがつかず、同人も事態を厚生省に委ねたものであり、また、厚生省部内では原告が一二月一四日北川課長に対し本件配置換に応ずる意向を表明した以前にすでに原告を懲戒免職処分とすることの意思決定をしていたのであるから、その処分の軽重の当否は別としても、本件処分以前に原告が本件配置換に応ずる意向を表明していても、そのことから、直ちに、被告の反組合的意図を推測することは困難である。

六、以上に説示したほか、被告が日頃原告の組合活動を嫌悪していたと認むべき証拠もない。したがつて本件配置換は原告主張のような被告の新潟支部弱体化、原告の組合活動封じ込めの意図によるものではなく、療養所における業務上の必要に基づくもので、原告を選考した事由にも合理性が認められるから、これをもつて国家公務員法第九八条第三項にいう不利益取扱であるということはできない。

七、そして、前掲乙第一九号証、および証人高橋浩の証言によれば被告は、前記認定のように原告を配置換する必要があつたにもかかわらず、また、被告ら管理者側の度々の説得にもかかわらず、原告が本件配置換命令を長期にわたつて拒否したこと、および後記認定の食餌運搬拒否が国家公務員にとつて法によつて禁ぜられた怠業行為であり、これを原告があおり、そそのかしたとの見解の下に本件処分をなしたものと認めることができるのである。

しかして、本件配置換命令拒否が懲戒免職処分に値しない行為であることは後記第四の二に説示のとおりであるが、その主たる理由は、被告が一旦なした配置換の内示およびその命令を取消したり、確認書により合意に達した事項を一方的に撤回するなど終始動揺した態度を示したことが組合側を刺激し、その後の混乱を惹起せしめた一因となつたことによるもので、被告の反組合的意図とは無関係であるから、本件配置換命令拒否が懲戒免職処分に値しないからといつて、これを単なる口実に過ぎないものとまで認めることはできない。

次に他の処分理由である原告が食餌運搬拒否をそそのかし、あおつたことが認むべき証拠のないことは後記第四の一に説示するとおりであるところ、被告は調理師協が全医労の下部組織であると誤信し、新潟支部がその闘争を指導し、その支部長である原告がこれをそそのかし、あおつたものと判断したものと推察されるが、部外者である被告が後記認定のような新潟支部と調理師協との関係を知らずに右のように誤信したとしても、後記第四の一の認定のような右闘争経過に関する事実関係の下では(ことに甲第八号証の一ないし四の「全医労新潟地区調理師連絡協議会」の記載によれば、部外者が右のような誤解を生ずるのも止むを得ないものというべきである。)特に責められるべきではないから被告の右判断が誤りであつて、右処分理由が存在しないからといつて、前同様これを単なる口実に過ぎないものとまで認めることはできない。

また、前記第二の二の2の認定の黒木次長の全医労に対する詫状差入れの要求についても、当時既に厚生省部内では原告を懲戒免職処分にすることに内定していたのみならず、右詫状は、当初北川課長が事態収拾の一策として原告に対し要求したものであつたが、黒木次長が全医労幹部と会談するうちにその場の雰囲気から全医労に対するものへと変つていつたに過ぎないのであるから、これのみをもつて、本件処分が不利益取扱であるとする裏付とすることはできない。

第四、処分権の濫用

一、食餌運搬拒否行為の煽動等について

1、本件処分理由の一つである原告が本件配置換命令を拒否した事実が認められることは前記第二に説示したとおりであるので、他の処分理由である原告による食餌運搬拒否行為の煽動等の点について判断すると、右処分理由については処分理由書に記載されていないが、前記第三の七説示のとおり、被告は配置換命令拒否の事実とともに、右の点についてもこの事実が存在するものとして、本件処分の理由の一つにしたことが認められる。

原告は、被告主張の食餌運搬拒否の点については、処分理由書に記載されていないし、かつ人事院における審査請求でもその対象外にされたところであり、本件訴において被告が再び主張することは許されない旨主張する。しかし、懲戒処分の取消の訴において、処分理由書に記載されていない事由でも、懲戒処分の事由として主張することは妨げないと解すべきであり、本件処分についての人事院審理で、右の点が審査の対象から除外されたことは、当事者間に争いがないが、かかる事情があつても、右の理は変らないというべきであるから、右原告の主張は採用できない。

2、そこで、右の点につき進んで判断するに、療養所には当時、炊夫が一四名おり、そのうち一〇名が調理師の資格を有していたが、一二療棟のうち六療棟の入療患者の食餌運搬は、かねてから朝食を除いて給食係の炊夫において行なわれていたところ、新潟県下調理師連絡協議会(以下、調理師協という。)において右食餌運搬は本来調理師の業務でないとの見解にもとづき、食餌運搬を拒否する闘争を指導し、また療養所においても(日時の点は別として)炊夫から右の趣旨の意見が表示されていたが、昭和三四年九月二五日炊夫は調理師一同の名をもつて「一〇月一日から病棟進出を拒否する。」旨の文書による通告を行ない、同日昼食から昭和三五年一月二一日までの間前記病棟への食餌運搬を拒否し続けたことは、当事者間に争いがない。

しかして、被告は右食餌運搬拒否が国家公務員法で禁止する怠業的行為であるとし、新潟支部長としての原告が、本件配置換問題を有利に導くために、これをあおり、そそのかしたものである旨主張するが、右食餌運搬拒否が怠業的行為であるかどうかの判断は暫く措くとして、右行為が新潟支部の指令にもとづいて行なわれ、またこれが原告によつて、あおり、そそのかされたものであることを裏づける資料は見当らない。すなわち、

(一) 被告主張第一の四の2の(イ)の事由について――調理師協の組織について、証人高橋浩は地区協(全医労新潟地区協議会)の一専門部会である旨証言するが、さしたる根拠があるわけでなく、かえつて証人渡辺素良の証言によれば、全医労には三〇数職種の組合員が加入しているが、規約上職種別の部会等は設けておらず、ただ組合員が自発的に結成した調理師協のような職種別連絡協議会があり、これが独自の要求をかかげて活動する場合に、全医労が援助し、これと協力しているに過ぎないことが認められるから、調理師協は全医労の組織とは直接関係なく、新潟支部と上、下の組織関係がないことも明らかである。もつとも、甲第八号証の一ないし四の文書名義には、調理師協をもつて「全医労新潟地区内調理師連絡協議会」と記載されていて、地区協との組織上の関係があるかのごとき名称が使用されているが、前掲甲第一二号証によれば全医労新潟地区協議会を組合が略称するときは「全医労新潟地区協」としていることが窺われるので、甲第八号証をもつても被告主張を裏づけることができない。

また、成立に争いない甲第一号証の三、第九号証の一ないし四、乙第一五号証前掲乙第一三号証ならびに証人渡辺三郎丸の証言によれば、調理師協が食餌運搬拒否の方針を決定したのは、昭和三四年四月の大会においてであり、療養所においても、炊夫から同年四月以降たびたび給食係々長に運搬拒否の申入れをしていたことが窺われ、したがつてこれらの意見表明は原告が療養所に復帰した七月一日以前になされていることが明らかである。

仮に、証人高橋浩、小川武治の証言にあるように、療養所で炊夫らから右趣旨の意見表明がなされたのは、同年八月二一日ころが始めてであつたとしても、前記第二の一の2に認定したとおり、原告の配置換問題は七月四日以降棚上げされており、しかも原告本人尋問の結果によれば、右棚上げで原告としては配置換問題が解決したと信じていたことが認められるから、未だつぎの配置換内示がない右の段階では、原告が食餌運搬拒否問題を自己の配置換問題のために有利に利用する必要もなかつたものといわなければならない。

(二) 同(ロ)の事由について――被告主張のとおり、九月一九日に本件配置換命令があり、その直後である九月二五日に運搬拒否通告文が発せられ、一〇月一日から実施されたことは前記のとおりである。しかし、前掲乙第一三ないし一五号証、証人渡辺三郎丸の証言によれば、療養所の調理師ら(炊夫も含む)は、前項のとおり、かねてから食餌運搬拒否を表明していたが、療養所では配膳夫等を配置する気配がなかつたので、八月二三日高橋庶務課長を通じて被告に対し、「九月一日から食餌運搬は中止する。」旨通告したところ、高橋庶務課長が「食餌運搬については九月一五日までに検討したい。」と回答したので、調理師側は九月末まで食餌運搬拒否闘争を延期していたが、被告からその後なんら回答も示されなかつたので、前記のとおりの九月二五日の通告文を出したことが認められる。証人高橋浩、小川武治の証言中、右認定に反する部分は信用できない。

右事実によれば、食餌運搬拒否闘争の実施は原告の配置換問題が再燃する九月一日以前からの一連の流れとしてとらえるべきであるから、たまたまその一時点において時期的に接着しているからといつて、右両者が関連あるものと認めることは相当でない。

(三) 同(ハ)の事由について――新潟支部が食餌運搬拒否闘争について、ビラ等を発行し、配付しその事実を報道したことは、原告が自認するところであり、また成立に争いない乙第一六号証、前掲甲第九号証の一ないし四、乙第一三ないし一五号証によれば、同支部は右事実報道をするにあたつて、食餌運搬拒否闘争を肯定するかのごとき表現をとつていることが窺われる。しかし、組合が組合員にその勤務条件等に関連する事項につき事実を報道することは、組合としての正当な権利行為であるし、また仮に調理師らの食餌運搬拒否行為が怠業的行為として違法なものであるとしても、前記のとおり組織上の上級機関に立たない新潟支部がその機関誌等に自己の法的見解を表明したとしても、これをもつて、国家公務員法第九八条第五項にいう怠業的行為を「あおる」行為や「そそのかす」行為に該当しないと解するのが相当であり、右につき新潟支部長としての原告の責を問うことはできない。

(四) 同(ニ)の事由について――前掲乙第四七号証に証人小川武治の証言を併せ考えれば、小川庶務課長補佐は一〇月二日午後一時近く、予め給食係長に連絡し、炊夫らを現場休憩室に集合させ、食餌運搬拒否闘争中止の業務命令を出すべく、右現場に行つたが、その際同所には炊夫ばかりでなく、新潟支部組合員が数名集まり、とくに原告が小川に対し「何しに来た、第二組合のほうから抗議されたから業務命令を出しに来たのか。」と発言し、他の支部組合員もこれに加わり、また炊夫で右のように発言したのは、支部書記長渡辺三郎丸だけであつたことが認められる。しかし、前掲甲第九号証の一および証人渡辺三郎丸の証言によれば、当時、新潟支部は、前記のとおり、分裂直後の新職労(原告のいう第二組合)の行動に極めて神経を尖らせており、また食餌運搬についたは調理師らと同一見解に立つていたので新潟支部の組合員である調理師らに対する右のような業務命令は新職労の差金によるものと思い込み、昼休み時、右業務命令を伝えるために来合わせた小川に対し調理師以外の支部組合員も右のような抗議をしたものと窺えるから、かかる偶発的ともいうべき原告ら新潟支部組合員の抗議行動をとらえて、被告主張のように食餌運搬闘争の中止命令に中心となつて反抗したのは、調理師以外の同支部組合員であると速断できない。

(五) 同(ホ)の事由について――成立に争いない乙第一七号証の新潟支部長名義の団交再開を申入れる旨の文書には、その再開の条件として「組合は、昭和三五年一月二一日昼食より、給食による車押しを行う。」との記載がある。しかし、右証拠に証人渡辺素良の証言を併せ考えると、全医労本部では、原告が本件処分を受けた後である一月中旬ころ、このまま調理師らが食餌運搬拒否闘争を続けるのは、被告の原告に対する処分経過に照らし、新たな犠牲者を出すことが予想されると考え、そのころ療養所において調理師らにその中止を勧告したこと、また、新潟支部は原告が処分を受けて以来、被告に団交再開を申入れていたが、被告から給食係の右闘争を理由に拒否されていたので、同本部の中止勧告後、右乙第一七号証のような団交再開の申し入れをしたことが推認できる。したがつて、乙第一七号証によつても未だ被告主張の(ホ)の事実は認められず、その他これを認めるに足りる証拠はない。

以上のように、被告主張の事実をもつても、原告が食餌運搬拒否行為を「あおり」、「そそのかした」ことを肯定することはできず、またこれを肯定するごとき前掲乙第一九号証、証人高橋浩、小川武治の証言も、前記(一)ないし(五)の事情に徴すれば、いずれも臆測にもとづくものに過ぎず採用できない。

以上のように、被告主張の原告の食餌運搬拒否煽動の事実を認めることはできないから、これをもつて本件処分の理由とすることはできない。

二、そこで、原告の本件配置換命令拒否が懲戒免職処分に相当する行為であるかどうかを検討する。

1、前記第三の三の2において認定したとおり、原告は被告の業務上の必要に基き発令された配置換につき、発令以来八八日間これに服さず旧職場に居すわり、その間上司の再三にわたる説得、注意に応じなかつたのであるから、その所為は国家公務員法第八二条第一号第二号に該当し、懲戒に値する非違行為であるということができる。

2、しかしながら、本件配置換命令が発令された経過をみると、前記第二の一のとおり、被告は原告に対する配置換命令が不利益取扱でないとしながら(事実そうでなかつたが)、原告や新潟支部の抗議を受けると、一旦出した配置換の内示、命令を取消すなど、その態度には極めて一貫しないものがあり、これが被告の主観的意図とは別に、原告および組合側をして、かえつて不利益取扱の疑を持たせる結果になつたことが窺える。

3、しかも、被告は九月九日原告および新潟支部との間で、原告に対する配置換を撤回し、この問題を話合いの上で解決する旨合意をし、確認書に調印しているのであるから(右合意の過程における新潟支部の態度が必ずしも平穏なものではなかつたとはいうものの被告に対する強迫的要素がなかつたことは前記第二の一の3のとおりである。)、いかに右合意に法的拘束力がなく、また、その内容が被告ら人事管理権者にとつて好ましくないものであつたとしても、被告として、右合意にそつた事態収拾策をとるべきであるのに(原告の配置換先である医事係算定が原告のほか余人をもつてかえがたい職種であると認むべき証拠はない。)、その翌日右合意の趣旨に反し再び一方的に原告の配置換を内示し、その後一週間を経てから右確認書による合意を一方的に撤回したことは、それが法的に可能であり、また、前記のように被告の反組合的意図のあらわれでないとしても、いたずらに右合意の相手方である組合を刺激し、これに対し著しい不信感をいだかせるものといわなければならない。

しかして原告が本件配置換命令に速やかに従わないことは、国家公務員として上司の職務上の命令に服すべき義務に反することは明らかであるが、右のような発令にいたるまで終始、原告および組合側に誤解をいだかせるような被告の動揺した態度ならびに原告及び組合側に対する不信的態度を考慮に入れれば、いたずらに原告の責任のみを追及するのは片手落ちの感がある。

4、また、新潟支部およびその支援団体による前記第二の二の2の(一)認定の療養所構内および管理者官舎への抗議ビラの貼付行為ならびに同(二)の九月二五日午後から翌二六日朝までの被告ら管理者および厚生省係官に対する集団抗議行動はいずれも正当な組合活動の範囲を逸脱したものであり、前記認定の右闘争の経緯に照らせば、原告は新潟支部長としてこれを指導したものと認められ、その上、自らも同(一)認定の深夜電報一通を打電したものであるから(もつとも同(一)認定のその他の深夜の抗議電報も正当な行為とは認められないが、これが原告の指導又は新潟支部の方針としてなされたものと認むべき証拠はない。)、その非を責められるのは当然としても、これらの闘争は前記第二認定のような経緯で本件配置換命令が発せられた九月一九日に接着したいわば所側に対する不信感が横溢している時期に行われたものであるから、かかる混乱の責任の一端は被告も負わなければならない。

5、そして、坂元と原告の話合い、さらに坂元と全医労本部書記長、関東地方協議長らとの交渉(当初、交渉の当事者は原告であるが、それが全医労本部などの中央に移つたといえる。)が重ねられ交渉の内容も進展の方向にあつたこと、またその間、奥沢の転勤問題も、坂元と全医労との交渉で円満に解決していることなどの事情からみれば、原告が右交渉においてその結論が出るまでは、新配置につこうとしなかつたことをもつて、それほど悪質な非違行為として評価することはできない。

6、原告が新配置につく態度を表明した際、前記第二の二の2のとおり、北川管理課長は、原告に対し反省の意を表す書面の提出を求めたが、それ自体はそれまでの経緯からみれば、不当なものではない。しかし、右書面の問題は、原告自身の問題であるにかかわらず、北川管理課長も黒木次長も、同行した原告にその真意を確かめたことはなく、しかも、組合側は一旦原告に口頭で詫びさせるところまで譲歩していたのに、黒木次長との会談では、組合側の駆引きと、同次長の組合を誹謗する発言から、全医労対本省の感情的対立を生じ、解決の曙光の見えはじめていた原告の配置換問題が原告の手の届かないところでこぢれ、遂に本件処分がなされるに至つたことが窺われる。このような事情も懲戒にあたり考慮すべき酌量事由であると考える。

7、また前掲乙第一九号証によれば、原告は昭和二三年四月以来引続いて療養所に勤務(中執専従も含む。)していたが、その間なんらの懲戒処分を受けたことのないことが認められ、前記のとおり本件配置に原告を選んだ事由に徴すれば、原告は普通以上の能力を有する職員であることが窺える。

8、さらに、前記第三の二の2のとおり、新潟支部書記長渡辺三郎丸が三七日間の職場放棄で一ケ月の停職処分を受けたことに比し、原告に対する本件処分は不相当に苛酷の感を免れない。

9、以上の点を総合して考えれば、本件処分は、被告が原告の八八日間にわたる本件配置換命令の拒否およびその間における違法な抗議行動という表面にあらわれた現象面だけにとらわれ、原告をかかる行為に走らせた大きな誘因である前記のような一貫性を欠く動揺した態度等の被告側の事情を等閑に附したまま、なされたものといわなければならない。したがつて、被告が原告に対し免職の懲戒処分を選択したことは、社会観念上著しく妥当を欠くものであつて、裁量権の行使につきその範囲を超えた違法があり、右違法は本件処分の取消事由に該当するものというべきである。

第五、結論

よつて、本件処分の取消を求める原告の本訴請求は理由があるから、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第七条、附則第三条、民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 吉井省己 松野嘉貞 佐藤歳二)

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